田村麻呂の創建伝承、徳川家康の愛馬寄進以来の400年続く流鏑馬神事
[住所]静岡県浜松市東区有玉南町1916
[電話]-
有玉神社(ありたまじんじゃ)は、静岡県浜松市東区有玉南町にある神社。母体は神明宮で、神明神社の一つ。有玉の宮とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「朝日波多加神社(遠江国・長上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀・創建年代は不詳。創祀に関する、天竜川河口近くに齢3000年を経るという赤大蛇に関する伝説が残る。
坂上田村麻呂が東征で当地を訪れた時、というから、平安時代初期のことだろうか。
美女に化けた赤大蛇と田村麻呂は恋仲になり2人の間に子供ができた。美女は将軍に子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。
しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところを見てしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。
この子が成人し、俊光将軍と呼ばれる武将になり、再び父子で東征の命を受け、当地を訪れた。
その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「潮干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。
この平野にやがて人が住み、村ができた。
ある年、夜ごとに東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を奉斎したのが当社だという。
『古事記』にある、山幸彦と豊玉姫命の話をベースに、また海が大荒れというのは、日本武尊と弟橘姫命の話を連想させる。
往古は旧有玉畑屋村本祠山にあって、社殿は東面し、朝日を受け麓に鳥居があったという。おそらくこれが式内比定の根拠となったようだ。
古天竜鹿玉川の洪水で坂路がくずれ、登ることが困難となったために、南側に改めたとも伝えられている。
徳川家康が大阪より帰陣の際、戦場での愛馬を当社に寄進したと伝わる。これが現在も続く当社の流鏑馬の起源となる。
江戸時代前期の元禄16年(1703年)再建の棟札があり、近世における朱印高は5石だったという。
明治40年(1907年)、当時の有玉村は世帯数380戸で、地域内には郷社としての神明宮を初め、村社、無格社合わせて12社があったという。
そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小部落で行う神社が9社だった。神社の多くは境内、社殿ともに狭く、尊厳の保持が難しかったという。
そこで、一村一社の合併を企画し、9月10日、郷社神明宮を現在地の八幡宮境内に移転し、あわせて11社を合祀、現社号に改称したという。
新社殿は大正2年(1913年)に完成し、同年9月10日に遷宮した。以上の経緯のため、御祭神は下記のように非常に多い。23柱。
天照意保比留売貴命・天手力男命
萬幡豊秋津姫命
誉田別命・息長足姫命・大鷦鷯命
猿田彦命・菅原道真公霊・国狭槌命
弥都波能売神・金山彦命・稲倉魂神
事解男命・速玉男命
大年神・御年神
志那都比売命・志那都比古命
須佐之男命・大物主命・大山祗命
伊邪那岐命・伊邪那美命
神明宮の旧地は有玉西町、日進機械の南だとされ、現在は将軍神社の小祠が残されているという。
天照意保比留売貴命は当社だけで祀られている神。不詳だが、もとは神明宮だったことを考えれば、天照大神のことか。
創祀伝承から言えば、赤大蛇の神名か、それが後世天照大神と習合したものか。
例祭は10月第2日曜日。家康以来の流鏑馬の神事が行われる。いわゆる馬を駆けて弓を射る、本来の流鏑馬ではない形式となる。
流鏑馬衆と呼ばれる若者が馬に跨り、お宮廻りをしたり、馬上で弓を回したり、矢を射ったり、相撲を奉納したり。
古文書に基づき、時代にあわせて少しづつ変えながら、400年以上続く神事となっている。
境内社に、俊光将軍社がある。創祀伝承に基づくものと思われる。古来から雨乞いの神として村人たちの信仰が厚かった。現在は下の病に霊験あらたかとされているという。
なお、式内社「朝日波多加神社」の論社は他に、いずれも市内で、南区飯田町の稲荷神社、東区の神立町の蒲神明宮、半田山の六所神社、浜北区内野の神明宮がある。
【ご利益】
産業振興、一族・子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全(公式HP)
【関連記事】
・静岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、静岡県に鎮座している神社の一覧
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有玉神社(ありたまじんじゃ)は、静岡県浜松市東区有玉南町にある神社。母体は神明宮で、神明神社の一つ。有玉の宮とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「朝日波多加神社(遠江国・長上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀・創建年代は不詳。創祀に関する、天竜川河口近くに齢3000年を経るという赤大蛇に関する伝説が残る。
坂上田村麻呂が東征で当地を訪れた時、というから、平安時代初期のことだろうか。
美女に化けた赤大蛇と田村麻呂は恋仲になり2人の間に子供ができた。美女は将軍に子供を産むところを絶対見ないと約束させ、赤大蛇になって産む。
しかし、将軍は思わず赤大蛇が子供を産むところを見てしまう。赤大蛇は将軍に子供を託し、川の底に戻ってしまう。
この子が成人し、俊光将軍と呼ばれる武将になり、再び父子で東征の命を受け、当地を訪れた。
その時、磐田の海が大荒れで困り果てるが、親(赤大蛇)から授かった「潮干の珠」を投げ入れると、荒れた海はスーッと引いて底に広い平野が現れた。
この平野にやがて人が住み、村ができた。
ある年、夜ごとに東の方に美しく輝く光が見られるようになった。村人がその光を探すと、そこに一個の珠があった。その珠を奉斎したのが当社だという。
『古事記』にある、山幸彦と豊玉姫命の話をベースに、また海が大荒れというのは、日本武尊と弟橘姫命の話を連想させる。
往古は旧有玉畑屋村本祠山にあって、社殿は東面し、朝日を受け麓に鳥居があったという。おそらくこれが式内比定の根拠となったようだ。
古天竜鹿玉川の洪水で坂路がくずれ、登ることが困難となったために、南側に改めたとも伝えられている。
徳川家康が大阪より帰陣の際、戦場での愛馬を当社に寄進したと伝わる。これが現在も続く当社の流鏑馬の起源となる。
江戸時代前期の元禄16年(1703年)再建の棟札があり、近世における朱印高は5石だったという。
明治40年(1907年)、当時の有玉村は世帯数380戸で、地域内には郷社としての神明宮を初め、村社、無格社合わせて12社があったという。
そのうち村全体で祭典を行う神社が3社、小部落で行う神社が9社だった。神社の多くは境内、社殿ともに狭く、尊厳の保持が難しかったという。
そこで、一村一社の合併を企画し、9月10日、郷社神明宮を現在地の八幡宮境内に移転し、あわせて11社を合祀、現社号に改称したという。
新社殿は大正2年(1913年)に完成し、同年9月10日に遷宮した。以上の経緯のため、御祭神は下記のように非常に多い。23柱。
天照意保比留売貴命・天手力男命
萬幡豊秋津姫命
誉田別命・息長足姫命・大鷦鷯命
猿田彦命・菅原道真公霊・国狭槌命
弥都波能売神・金山彦命・稲倉魂神
事解男命・速玉男命
大年神・御年神
志那都比売命・志那都比古命
須佐之男命・大物主命・大山祗命
伊邪那岐命・伊邪那美命
神明宮の旧地は有玉西町、日進機械の南だとされ、現在は将軍神社の小祠が残されているという。
天照意保比留売貴命は当社だけで祀られている神。不詳だが、もとは神明宮だったことを考えれば、天照大神のことか。
創祀伝承から言えば、赤大蛇の神名か、それが後世天照大神と習合したものか。
例祭は10月第2日曜日。家康以来の流鏑馬の神事が行われる。いわゆる馬を駆けて弓を射る、本来の流鏑馬ではない形式となる。
流鏑馬衆と呼ばれる若者が馬に跨り、お宮廻りをしたり、馬上で弓を回したり、矢を射ったり、相撲を奉納したり。
古文書に基づき、時代にあわせて少しづつ変えながら、400年以上続く神事となっている。
境内社に、俊光将軍社がある。創祀伝承に基づくものと思われる。古来から雨乞いの神として村人たちの信仰が厚かった。現在は下の病に霊験あらたかとされているという。
なお、式内社「朝日波多加神社」の論社は他に、いずれも市内で、南区飯田町の稲荷神社、東区の神立町の蒲神明宮、半田山の六所神社、浜北区内野の神明宮がある。
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産業振興、一族・子孫繁栄、五穀豊穣、家内安全(公式HP)
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