安閑朝に鎮座、白羽官牧の馬の神、今川・武田・徳川からの崇敬
[住所]静岡県御前崎市白羽3511
[電話]0548-63-2907
白羽神社(しろわじんじゃ)は、静岡県御前崎市白羽にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「服織田神社(遠江国・蓁原郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。
旧社地である、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に第25代安閑天皇元年(532年)11月に鎮座したという。往古より白羽大明神と称せられた。
平安時代の承和元年(834年)3月、遷座の神託があり、適地を探し、承和4年(838年)2月、現在地に遷座した。旧地には駒形神社が鎮座する。
『延喜式』に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した90頭の馬の内1頭が岸にたどりついた地とされる。
残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと伝わる。往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。
御祭神は、天津日高日子穂々手見命、豊玉毘賣命、玉依毘賣命。皇祖夫婦とその妹、その妹は初代神武天皇の母という形になる。海神で、海上安全・大漁満足。
武門の崇敬が篤く、源頼朝以来、白羽地区全域が神領で、市内佐倉地区に貫高29貫200文の土地を有した。
永禄年間(1558年-1570年)、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間(1570年-1573年)、武田信玄が当地に出兵してきた。
これにより、所伝の古文書類はもとより、社殿などが兵火に罹り、すべて焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開して無事だった。
戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ、社殿を再建し、元亀3年(1572年)10月14日、御神体は還幸した。
また、時の神主だった滝玄蕃幸嗣は神領所有の事情を武田勝頼に上申、天正2年(1574年)7月9日、神領が寄進された。
社宝として、武田家朱印状「信玄印判状」「勝頼印判状」「勝頼印判状禁制」の3通が現存、市の有形文化財に指定されている。
武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受け、慶長8年(1603年)9月19日、朱印高105石の寄進があり、当地方では最高位、遠州全体でも有数の大社となった。
現在の本殿は、江戸時代中期から後期に建立されたと推定され、入母屋、こけら葺、桁行3間、梁間2間。市の有形文化財に指定されている。
馬にゆかりの深い当社の祭典は、古来、白羽馬祭と称され、遠近より参詣の馬はいずれも装飾の美が競われ、境内は馬と人で埋まったと伝わる。
近代になり、農業が機械化され、馬の姿が見られなくなった後、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣として、自動車の交通安全に信仰が変わった。
明治6年(1873年)3月、郷社に列し、明治44年(1911年)8月11日には神饌幣帛料供進社に指定され、昭和5年(1930年)2月11日 県社に昇格した。
例祭は4月10日。現在はこの日に近い日曜日。神輿の市内白羽地区巡行が行われる。大祓が6月・12月晦日にあり、茅の輪くぐりが行われる。
秋祭りが10月連休初日の土曜日で、市内白羽地区6基の山車が昼夜、おはやしとともに練りまわされる。
2月3日は節分祭で、神事に続き、歳男歳女による豆まきが行われる。また、各種景品が当たる福餅も蒔かれ、境内は賑わう。
なお、式内社「服織田神社」の論社は他に、牧之原市静波に式内同名神社がある。
【ご利益】
海上安全、大漁満足、交通安全(公式HP)

【関連記事】
・静岡県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
・静岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、静岡県に鎮座している神社の一覧
[電話]0548-63-2907
白羽神社(しろわじんじゃ)は、静岡県御前崎市白羽にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「服織田神社(遠江国・蓁原郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。
旧社地である、御前崎市御前崎(厩崎)字本社に第25代安閑天皇元年(532年)11月に鎮座したという。往古より白羽大明神と称せられた。
平安時代の承和元年(834年)3月、遷座の神託があり、適地を探し、承和4年(838年)2月、現在地に遷座した。旧地には駒形神社が鎮座する。
『延喜式』に載る白羽官牧の地と伝えられ、旧社地の駒形神社は、往古沖で遭難した90頭の馬の内1頭が岸にたどりついた地とされる。
残りの馬は沖の御前岩(駒形岩)と化したと伝わる。往古は馬をお祀りしていた。これは、龍神信仰によるもので、海辺では名馬が育つと信じられたため。
御祭神は、天津日高日子穂々手見命、豊玉毘賣命、玉依毘賣命。皇祖夫婦とその妹、その妹は初代神武天皇の母という形になる。海神で、海上安全・大漁満足。
武門の崇敬が篤く、源頼朝以来、白羽地区全域が神領で、市内佐倉地区に貫高29貫200文の土地を有した。
永禄年間(1558年-1570年)、今川義元まで武将代々の朱黒印の寄進もあったが、元亀年間(1570年-1573年)、武田信玄が当地に出兵してきた。
これにより、所伝の古文書類はもとより、社殿などが兵火に罹り、すべて焼失したが、御神体のみ島田市中川根白羽山に疎開して無事だった。
戦乱平定後、武田氏は神威を畏れ、社殿を再建し、元亀3年(1572年)10月14日、御神体は還幸した。
また、時の神主だった滝玄蕃幸嗣は神領所有の事情を武田勝頼に上申、天正2年(1574年)7月9日、神領が寄進された。
社宝として、武田家朱印状「信玄印判状」「勝頼印判状」「勝頼印判状禁制」の3通が現存、市の有形文化財に指定されている。
武田氏滅亡後は徳川氏の崇敬を受け、慶長8年(1603年)9月19日、朱印高105石の寄進があり、当地方では最高位、遠州全体でも有数の大社となった。
現在の本殿は、江戸時代中期から後期に建立されたと推定され、入母屋、こけら葺、桁行3間、梁間2間。市の有形文化財に指定されている。
馬にゆかりの深い当社の祭典は、古来、白羽馬祭と称され、遠近より参詣の馬はいずれも装飾の美が競われ、境内は馬と人で埋まったと伝わる。
近代になり、農業が機械化され、馬の姿が見られなくなった後、馬は疾走中といえども絶対に人を踏むことのない霊獣として、自動車の交通安全に信仰が変わった。
明治6年(1873年)3月、郷社に列し、明治44年(1911年)8月11日には神饌幣帛料供進社に指定され、昭和5年(1930年)2月11日 県社に昇格した。
例祭は4月10日。現在はこの日に近い日曜日。神輿の市内白羽地区巡行が行われる。大祓が6月・12月晦日にあり、茅の輪くぐりが行われる。
秋祭りが10月連休初日の土曜日で、市内白羽地区6基の山車が昼夜、おはやしとともに練りまわされる。
2月3日は節分祭で、神事に続き、歳男歳女による豆まきが行われる。また、各種景品が当たる福餅も蒔かれ、境内は賑わう。
なお、式内社「服織田神社」の論社は他に、牧之原市静波に式内同名神社がある。
【ご利益】
海上安全、大漁満足、交通安全(公式HP)

【関連記事】
・静岡県の旧県社 | 府県社とは? - 旧県社(縣社)・旧府社、その都道府県の中で有力な神社
・静岡県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、静岡県に鎮座している神社の一覧

コメント