菅原道真自作の木像、ふとん太鼓、十日えびす、ホタル観賞
[住所]大阪府堺市堺区戎之町東2-1-38
[電話]072-232-2450
菅原神社(すがわらじんじゃ)は、大阪府堺市堺区戎之町東にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
平安時代、摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着いた。これは、菅原道真が配流された大宰府の地で自ら作り、海へ放された七天神のうちの一つとされる。
この御神体はしばらく付近の住人によって祀られていたが、当地の氏神だった、天台宗威徳山天神常楽寺の僧徒が、御神体を同寺に遷し、長徳3年(997年)、天神社を創建した。
これが当社の始まりで、この時に常楽寺で祀られていた春日明神と山王権現とともに祀られた。
戦国時代の天文元年(1532年)12月14日夜半、北の庄から出た火は、折からの季節風にあおられて、天神社を含む北の庄のほぼ全域にあたる4000軒を焼きつくした。
安土桃山時代の天正2年(1574年)、当時の配置図では、本社・拝殿・大梵天堂・金殿・観音堂・薬師堂・護摩堂などが描かれ、早々に再建、規模が拡大されたことがうかがえる。
豊臣秀吉は、免税などを保障する220石の朱印を寄せ、徳川幕府もこれを引継いだと伝えられている。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣の直前、豊臣方の武将、大野道犬は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、天神社は再び焼失。
江戸時代前期の承応元年(1652年)、菅神750年祭を機に再建の機運が高まり、翌年には新殿が完成、御神体を遷した。
『元禄二年(1689年)堺大絵図』には、「北の天神、南の開口」と呼ばれ、堺の町において、開口神社とともに称された。
明治になり、神仏分離が行われ、明治5年(1872年)、大梵天社など仏教関係を廃絶し、天神社から現社号に改称。
明治41年(1908年)までに、宿屋町の薬祖神社(少彦名命・神農大神)、宿屋町の事代主神社、神明町の神明神社、泉北郡の附島神社、熊野町の熊野神社を当社境内に移した。
この熊野神社は、九十九王子の7番目「境王子」に比定する説がある。また、戎之町の事代主神社を当社の飛地境内地である戎島の恵比寿神社(事代主命)に遷した。
昭和20年(1945年)7月10日、空襲により、随身門と金毘羅宮を残して建物や宝物が完全に焼失した。
戦後、復興の拠り所として、再建の機運が高まり、昭和26年(1951年)1月に、本社と戎神社、昭和30年(1955年)8月に薬祖神社が再建された。
焼失を免れた金毘羅宮は、本社の拝殿の一部として使われるようになった。慶安5年(1652年)建立の随身門も修復保存され、府の有形文化財に指定された。
この随身門には、堺の武将小西行長が朝鮮から持ち帰って奉納した笠松の大木の幹も保存されている。
例祭は9月13日・14日で八朔祭。「ふとん太鼓」をはじめ、子ども神輿や民踊などが泰納される。
昭和26年に当社境内に移した戎島の恵比寿神社は現在、1月に行われる十日戎で知られる。戎祭で、福娘による福笹の授与、一石餅の奉納などがある。
境内にある常楽殿の裏手に広がる庭園には、茶室「紅梅軒」、千利休の師である武野紹鷗が愛用したと伝えられる「椿の井戸」がある。
毎年6月中旬、この庭園で2日間にわたってホタル観賞会が開催される。都会ど真ん中だが、およそ1000匹のホタルが闇の中で光の乱舞を繰り広げ、数千人の見物人を魅了する。
【ご利益】
学業・受験合格、病気平癒、商売繁盛、事業成功(公式HP)

【関連記事】
・十日戎・日本三大ゑびすとは? - 「えべっさん」関西の冬の風物詩、福娘に福笹、マグロ
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
[電話]072-232-2450
菅原神社(すがわらじんじゃ)は、大阪府堺市堺区戎之町東にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
平安時代、摂津の国北の庄、海船の濱に一体の木像が流れ着いた。これは、菅原道真が配流された大宰府の地で自ら作り、海へ放された七天神のうちの一つとされる。
この御神体はしばらく付近の住人によって祀られていたが、当地の氏神だった、天台宗威徳山天神常楽寺の僧徒が、御神体を同寺に遷し、長徳3年(997年)、天神社を創建した。
これが当社の始まりで、この時に常楽寺で祀られていた春日明神と山王権現とともに祀られた。
戦国時代の天文元年(1532年)12月14日夜半、北の庄から出た火は、折からの季節風にあおられて、天神社を含む北の庄のほぼ全域にあたる4000軒を焼きつくした。
安土桃山時代の天正2年(1574年)、当時の配置図では、本社・拝殿・大梵天堂・金殿・観音堂・薬師堂・護摩堂などが描かれ、早々に再建、規模が拡大されたことがうかがえる。
豊臣秀吉は、免税などを保障する220石の朱印を寄せ、徳川幕府もこれを引継いだと伝えられている。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣の直前、豊臣方の武将、大野道犬は、堺が徳川方の基地になるのを恐れて堺の町に火を放ち、天神社は再び焼失。
江戸時代前期の承応元年(1652年)、菅神750年祭を機に再建の機運が高まり、翌年には新殿が完成、御神体を遷した。
『元禄二年(1689年)堺大絵図』には、「北の天神、南の開口」と呼ばれ、堺の町において、開口神社とともに称された。
明治になり、神仏分離が行われ、明治5年(1872年)、大梵天社など仏教関係を廃絶し、天神社から現社号に改称。
明治41年(1908年)までに、宿屋町の薬祖神社(少彦名命・神農大神)、宿屋町の事代主神社、神明町の神明神社、泉北郡の附島神社、熊野町の熊野神社を当社境内に移した。
この熊野神社は、九十九王子の7番目「境王子」に比定する説がある。また、戎之町の事代主神社を当社の飛地境内地である戎島の恵比寿神社(事代主命)に遷した。
昭和20年(1945年)7月10日、空襲により、随身門と金毘羅宮を残して建物や宝物が完全に焼失した。
戦後、復興の拠り所として、再建の機運が高まり、昭和26年(1951年)1月に、本社と戎神社、昭和30年(1955年)8月に薬祖神社が再建された。
焼失を免れた金毘羅宮は、本社の拝殿の一部として使われるようになった。慶安5年(1652年)建立の随身門も修復保存され、府の有形文化財に指定された。
この随身門には、堺の武将小西行長が朝鮮から持ち帰って奉納した笠松の大木の幹も保存されている。
例祭は9月13日・14日で八朔祭。「ふとん太鼓」をはじめ、子ども神輿や民踊などが泰納される。
昭和26年に当社境内に移した戎島の恵比寿神社は現在、1月に行われる十日戎で知られる。戎祭で、福娘による福笹の授与、一石餅の奉納などがある。
境内にある常楽殿の裏手に広がる庭園には、茶室「紅梅軒」、千利休の師である武野紹鷗が愛用したと伝えられる「椿の井戸」がある。
毎年6月中旬、この庭園で2日間にわたってホタル観賞会が開催される。都会ど真ん中だが、およそ1000匹のホタルが闇の中で光の乱舞を繰り広げ、数千人の見物人を魅了する。
【ご利益】
学業・受験合格、病気平癒、商売繁盛、事業成功(公式HP)

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