嵯峨天皇を奉斎、道真が綱に座り梅を照覧した地、梅田キタの起源
[住所]大阪府大阪市北区神山町9-11
[電話]06-6361-2887

綱敷天神社(つなしきてんじんしゃ)は、大阪府大阪市北区神山町にある神社。近代社格では郷社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

平安時代の弘仁13年(822年)、第52代嵯峨天皇が当地に行幸し、現在の本社の位置に仮の御殿を構え、一宿した。

嵯峨天皇崩御後、皇子である源融が追悼のため、承和10年(843年)、嵯峨天皇を奉斎する社殿を当地に創建し、神野太神宮と称された。

延喜元年(901年)、菅原道真が太宰府への左遷の際、この地で今を盛りと咲いていた紅梅に目を留め、船の艫綱を円く円座状に敷いて照覧した。

そのため、綱敷(つなしき)と呼ばれるようになった。

この時、道真は従者である白太夫こと度会春彦の一族らに、「この地に留まり、いつか戻るその日まで待つように」と遺訓を残した。

その際、白江の姓を賜り、また自筆の御影と座った綱が与えられた。白江氏は遺訓に従い、この地に留まり、紅梅の樹下に小祠を営み、梅塚天満宮と称した。

この梅塚が「梅田」の名の由来となったともいわれている。白江氏は今に至るまで、当社の神職として奉仕している。

正暦4年(993年)、冤罪が晴れた道真の神霊に対し、正一位が追贈され、当地にも改めて社殿が建立されることになった。

神野太神宮と梅塚天満宮を合祀し、北野天神社と称された。喜多埜とも書かれ、この「キタ」が、現在の梅田周辺の繁華街を指す「キタ」の語源になったとされる。

中世には兵火に遭うが、一夜にして7本の松が生い出て、その奇瑞によって社殿が復興されるなど、霊験あらたかなる神社として名を馳せた。

近世には大阪市中の尊崇を集める古社として知られるようになり、明治7年(1874年)に大阪駅が開業して以降、梅田キタの氏神として崇められた。

当時の国の方針により、梅塚天満宮は茶屋町に移され、社名を御旅社とし、角田町に鎮座していた歯神社を管掌するようになり、現在の当社の形となった。

先の大戦による空襲で、社殿・文献などの多くは灰燼に帰したが、道真が座った御神宝の御綱と御影は戦災を逃れた。

本社には、本殿に嵯峨天皇・菅原道真公を祀り、境内社として、喜多埜稲荷神社(宇迦之御魂大神)・白龍社(白龍大神・猿田彦大神)がある。

御旅社の本殿には道真を祀り、その境内社として玉姫稲荷神社(宇迦之御魂大神)がある。境外社であるは神社の御祭神も歯神大神と称される宇迦之御魂大神である。

戦前まで、末社として、皇大神宮(天照皇大御神)、六社相殿(応神天皇春日大神住吉大神天穂日神蛭子大神大国主大神)、相殿社(猿田彦神、紅梅殿、白太夫神霊)、事平手力雄神社(事平神、手力雄神)があった。

太平洋戦争における空襲で社殿が焼失しており、今では本社本殿に御神霊を仮遷座した形になっている。

例祭は7月15日。1月15日には御粥祭としてとんど祭が、10月15日には秋祭(菊花祭)がある。

【ご利益】
学業・受験合格、病気平癒、五穀豊穣、商売繁盛、交通安全(公式HP
綱敷天神社 大阪府大阪市北区神山町
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綱敷天神社 大阪府大阪市北区神山町の御朱印