源義家が遥拝し創立した江戸六弁天の抜弁天、新宿山ノ手七福神
[住所]東京都新宿区余丁町8-5
[電話]-
厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)は、東京都新宿区余丁町にある神社。抜弁天厳嶋神社とも。西向天神社の兼務神社であり、正月以外、西向天神社で御朱印を頂ける。
白河天皇の御世、平安時代の応徳3年(1086年)、鎮守府将軍源義家は、後三年の役で奥州征伐の途上、この地に立ち寄り、遠く富士を望み、安芸厳島神社に勝利を祈願。
義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当社の始めと伝えられている。
義家に関する伝承は、西向天神社にも伝わり、当時この付近に旧鎌倉街道が通っていたためだとされる。
江戸時代になり、参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられた。
江戸時代の地誌、大久保絵図(安政4年)にも抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
『新編武蔵風土記稿』によれば、5代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」により、この附近に2万5000坪の犬小屋が設けられていた。
別当は二尊院。新義真言宗、愛宕円福寺地中金剛院の末寺で、雨宝山と称したという。
第二次大戦で戦災を受け、わずかに元禄16年(1703年)2月銘のある水鉢を残すだけである。戦後再興し、神池なども設けられた。
当社は山之手七福神、新宿山ノ手七福神、山の手七福神などとも呼ばれる七福神めぐりの弁財天である。
この七福神めぐりは、昭和9年(1934年)、大久保の中村正策が発案とも、大正年間(1912年-1926年)に布袋屋呉服店(いせ丹)人形研究家の有坂与太郎の発案ともされる。
例祭は9月5日。
【ご利益】
交通安全、スポーツ・技芸上達、武運長久・勝運

【関連記事】
・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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厳嶋神社(いつくしまじんじゃ)は、東京都新宿区余丁町にある神社。抜弁天厳嶋神社とも。西向天神社の兼務神社であり、正月以外、西向天神社で御朱印を頂ける。
白河天皇の御世、平安時代の応徳3年(1086年)、鎮守府将軍源義家は、後三年の役で奥州征伐の途上、この地に立ち寄り、遠く富士を望み、安芸厳島神社に勝利を祈願。
義家は奥州鎮定後その御礼に神社を建て、市杵島姫命を祀ったのが当社の始めと伝えられている。
義家に関する伝承は、西向天神社にも伝わり、当時この付近に旧鎌倉街道が通っていたためだとされる。
江戸時代になり、参道は南北に通り抜けでき、また苦難を切り抜けた由来から、抜弁天として庶民から信仰され、江戸六弁天の一つに数えられた。
江戸時代の地誌、大久保絵図(安政4年)にも抜弁天と記載され、また他の絵図にはここに稲荷神社があったことも示されている。
『新編武蔵風土記稿』によれば、5代将軍徳川綱吉の「生類憐みの令」により、この附近に2万5000坪の犬小屋が設けられていた。
別当は二尊院。新義真言宗、愛宕円福寺地中金剛院の末寺で、雨宝山と称したという。
第二次大戦で戦災を受け、わずかに元禄16年(1703年)2月銘のある水鉢を残すだけである。戦後再興し、神池なども設けられた。
当社は山之手七福神、新宿山ノ手七福神、山の手七福神などとも呼ばれる七福神めぐりの弁財天である。
この七福神めぐりは、昭和9年(1934年)、大久保の中村正策が発案とも、大正年間(1912年-1926年)に布袋屋呉服店(いせ丹)人形研究家の有坂与太郎の発案ともされる。
例祭は9月5日。
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