江戸期には遊女による信仰、赤鳥居の祟り、神砂の伝承とご利益
[住所]東京都大田区羽田5-2-7
[電話]03-3741-0809

穴守稲荷神社(あなもりいなりじんじゃ)は、東京都大田区羽田、もとの羽田穴守町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。羽田空港の航空機などをあしらった、オリジナルの御朱印帳がある。

江戸時代後期の文化元年(1804年)、新田開墾の折り、海が荒れて沿岸の堤防が決壊し、村々は海水による甚大な被害を受けた。

村民が堤防の上に祠を勧請し、稲荷大神を祀ると、海が静まって大きな実りをもたらした。これが当社の起こりとされている。

御祭神は豊受姫命。別名を受迦御霊神倉稲魂命という。

穴守という名の由来は、堤防に開いた穴の害から人々を守るという神徳にちなむ。もとは新田開拓を行った鈴木家の土地にある、小さな祠だった。

江戸時代には、「穴守」という名前が「穴」を「(性病から)守る」に通じると考えられ、遊女たちの信仰を集めたという。

明治17年(1884年)には暴風雨に襲われ、崩壊したが、翌年には再建、明治19年(1886年)には穴守稲荷社から現社号に改称した。

再建した当社は境内も広くなり、さらに周辺で潮干狩りもできることや温泉が湧いたこともあり、門前には温泉旅館や芸者の置屋ができ、賑わいを見せた。

この繁栄を見て、京浜電気鉄道(現 京浜急行電鉄)は京浜蒲田から当社へ向けて支線を伸ばすことになった。

明治35年(1902年)には海老取川の手前まで、ついで大正2年(1913年)には川を渡って当社門前まで延伸、当社界隈はさらに賑わった。

しかし、第二次世界大戦が終わった直後の昭和20年(1945年)9月21日、羽田空港を軍事基地として拡張するため、米軍(GHQ)より、強制退去を迫られた。

これに対して、地元の有志らは移転先となる稲荷橋駅(現 穴守稲荷駅)近くの現在の鎮座地700坪(2310平米)を寄進した。

なお、移転前の社殿や他の鳥居はGHQによって取り壊されたが、門前の赤鳥居だけは撤去できず、そのまま空港の更地(後に駐車場となる)に残され続けた。

それは赤鳥居にロープをかけて倒そうとしたところ、ロープが切れて作業員たちに死傷者が出てしまったため。

また、その後も何度か取り壊しや移転案も出たが、その度に移転の工事関係者が事故にあったり、原因不明の病気になったりと、赤鳥居は「祟る」とされた。

その後も昭和29年(1954年)に羽田空港ターミナルビルが建設されるが、同時期に行われた滑走路拡張工事でも工事中に死傷者が続出した。

しかし、1990年代に入り、羽田空港の沖合展開事業にあたり滑走路に支障するため撤去する計画が出た。

地元住民などの要望で、拝殿の移設から半世紀以上経った平成11年(1999年)にようやく赤鳥居は現在地(天空橋駅南、弁天橋交番前)へ移設された。

この際、鳥居をクレーンで吊り上げた時に、突然雨が降り出した。

境内には、奥之宮(奥の宮)がある。また、それに関わる神砂(あなもりの砂)の伝承が残されている。

昔、老人が漁に出て魚を釣り上げて魚篭に入れたが、中を見ると湿った砂があるだけだった。翌日も翌々日も大漁となるも、篭をみるとやはり湿った砂があるばかり。

老人はいぶかしく思い、村人たちにこのことを話すと、村人たちはこれを狐の仕業として当社を取り囲み、一匹の狐を捕まえた。しかし、老人は狐を許し、解き放った。

以降、老人が漁に出ると必ず大漁となり、篭には多くの魚とわずかばかりの湿った砂が残るようになった。

老人が砂を持ち帰って家の庭にまいたところ、客が途切れることなく訪れるようになり、老人は富を得た。

この砂が「あなもりの砂」と呼ばれ、招福のご利益があるとされて、今も多くの参拝者を集めている。撒き方は以下の通り。

・商、工、農、漁業、家内安全の招福
→玄関入口へ

・病気平癒の場合
→床の下へ

・災、厄、禍除降の場合
→その方向へ

・新築、増改築
→敷地の中心へ

例祭は11月3日で、例大祭。2月の節分の日には豆まきが行われ、8月下旬の金・土曜日には献灯祭があり、多くの人で賑わう。羽田七福いなりの一社である。

【ご利益】
商売繁盛、開運招福、厄災除け(公式HP
穴守稲荷神社 東京都大田区羽田
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