垂仁朝の創祀、4世紀古墳、天武天皇が伊勢神宮を遥拝、式内を合祀
[住所]三重県四日市市大宮町14-6
[電話]059-331-0620
志氐神社(しでじんじゃ、志氏神社)は、三重県四日市市羽津にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「志氐神社(伊勢国・朝明郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
社伝によれば、第11代垂仁天皇の御代の鎮座。高野御前と称えられたという。御祭神は気吹戸主神(伊吹戸主大神)。
境内には4世紀の前方後円墳がある。この地方では、ほとんど唯一の4世紀古墳で、北勢地方随一の大古墳とされる。内行花文鏡・車輪石・勾玉・管玉・小玉などが出土している。
前方部は削り取られ、高さ6メートル・直径30メートルの後円部だけが現存している。また陪塚が7個あったと伝えるが、1個のみ境外東方の敷地に現存している。
『伊勢名勝志』によれば、この古墳は額田連の祖、意富伊我都命(おういがつのみこと)の陵墓と記されている。
社号は、天武天皇が壬申の乱を避け、吉野から鈴鹿を経て、桑野への途次、迹太川(とはがわ)のあたりで、伊勢の神宮(伊勢神宮)を遥拝したことに起因しているという。
「しで」とは、御幣のことで、天皇が四方に幣を班(わか)ち、祓の神である気吹戸主神を祀り、禊ぎ払いをした跡を指す。
天皇が御祓を行った丘を御祓岡、今の岡山といい、神宮を望拝された山を額摘山という。『神鳳抄』にも「額田神田」とあり、もとより伊勢神宮との縁が深い地である。
奈良時代の天平12年(740年)、聖武天皇がこの地方へ行幸した時、丹比屋主真人が当社で詠んだ歌が、『万葉集』に載っている。
応永年間(1394年-1428年)、田原藤太藤原秀郷の後裔である赤堀盛宗が、当杜の南方数町の地に羽津城を築き、その後6代居城し、代々当社を崇敬した。
また、天正年間(1573年-1593年)には豊臣秀吉が羽津城に駐陣して、桑名の織田信雄に対した時、数次当社に参詣して、戦勝を念じたという。
慶長5年(1600年)、桑名城主本多忠勝が神田を寄進した記録が残る。羽津村・吉沢村・別名村・八幡村・鵤村の5ヶ村の総杜として崇敬された。
明治2年(1869年)3月、明治天皇の御東幸に際して、勅使が差遣された。
明治6年(1873年)3月、郷社に列し、明治39年(1906年)、神饌幣帛料供進社に指定され、昭和6年(1931年)3月に県社に昇格した。
明治40年(1907年)、白須賀の神明杜と住吉社、八幡の八幡神社、別名の式内社である長谷神杜と荒神社、各字の山之神を本殿に奉斎し、その他の御祭神を境内社に合祀した。
現在までに、伊邪那岐命・伊邪那美命を配祀し、上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命・応神天皇・大山祇神・奧津日子神・奧津日女神・久那斗神・不詳一座を合祀する。
なお、大矢知町の長倉神社を式内社「長谷神社」に比定する説があるが、あまり有力ではない。また、『延喜式神名帳』伊勢国には桑名郡にも長谷神社が記載されている。
例祭は、10月17日で大祭。2月3日が節分祭で、7月17日が夏祭。大祭や夏祭りでは箕田流の獅子舞や、石北宮守太神楽が奉納される。
境内社に、妻恋稲荷神社(日本武尊・弟橘媛命・稲倉魂神)がある。江戸時代後期の嘉永6年(1853年)に東京都文京区湯島の妻恋神社を勧請したもの。
他の境内社に、須賀社(建速須佐之男命など8柱)、大宮能費社(天宇受費命など7柱)がある。
陶製の脚の折れた狛犬一対が伝わる。
【ご利益】
厄災除け、交通安全、家内安全
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[電話]059-331-0620
志氐神社(しでじんじゃ、志氏神社)は、三重県四日市市羽津にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「志氐神社(伊勢国・朝明郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
社伝によれば、第11代垂仁天皇の御代の鎮座。高野御前と称えられたという。御祭神は気吹戸主神(伊吹戸主大神)。
境内には4世紀の前方後円墳がある。この地方では、ほとんど唯一の4世紀古墳で、北勢地方随一の大古墳とされる。内行花文鏡・車輪石・勾玉・管玉・小玉などが出土している。
前方部は削り取られ、高さ6メートル・直径30メートルの後円部だけが現存している。また陪塚が7個あったと伝えるが、1個のみ境外東方の敷地に現存している。
『伊勢名勝志』によれば、この古墳は額田連の祖、意富伊我都命(おういがつのみこと)の陵墓と記されている。
社号は、天武天皇が壬申の乱を避け、吉野から鈴鹿を経て、桑野への途次、迹太川(とはがわ)のあたりで、伊勢の神宮(伊勢神宮)を遥拝したことに起因しているという。
「しで」とは、御幣のことで、天皇が四方に幣を班(わか)ち、祓の神である気吹戸主神を祀り、禊ぎ払いをした跡を指す。
天皇が御祓を行った丘を御祓岡、今の岡山といい、神宮を望拝された山を額摘山という。『神鳳抄』にも「額田神田」とあり、もとより伊勢神宮との縁が深い地である。
奈良時代の天平12年(740年)、聖武天皇がこの地方へ行幸した時、丹比屋主真人が当社で詠んだ歌が、『万葉集』に載っている。
後れにし 人を思はく 四泥の崎 木綿取り垂でて 幸くとぞ思ふこの「四泥の崎」が当社および周辺を指す、とされる。
応永年間(1394年-1428年)、田原藤太藤原秀郷の後裔である赤堀盛宗が、当杜の南方数町の地に羽津城を築き、その後6代居城し、代々当社を崇敬した。
また、天正年間(1573年-1593年)には豊臣秀吉が羽津城に駐陣して、桑名の織田信雄に対した時、数次当社に参詣して、戦勝を念じたという。
慶長5年(1600年)、桑名城主本多忠勝が神田を寄進した記録が残る。羽津村・吉沢村・別名村・八幡村・鵤村の5ヶ村の総杜として崇敬された。
明治2年(1869年)3月、明治天皇の御東幸に際して、勅使が差遣された。
明治6年(1873年)3月、郷社に列し、明治39年(1906年)、神饌幣帛料供進社に指定され、昭和6年(1931年)3月に県社に昇格した。
明治40年(1907年)、白須賀の神明杜と住吉社、八幡の八幡神社、別名の式内社である長谷神杜と荒神社、各字の山之神を本殿に奉斎し、その他の御祭神を境内社に合祀した。
現在までに、伊邪那岐命・伊邪那美命を配祀し、上筒之男命・中筒之男命・底筒之男命・応神天皇・大山祇神・奧津日子神・奧津日女神・久那斗神・不詳一座を合祀する。
なお、大矢知町の長倉神社を式内社「長谷神社」に比定する説があるが、あまり有力ではない。また、『延喜式神名帳』伊勢国には桑名郡にも長谷神社が記載されている。
例祭は、10月17日で大祭。2月3日が節分祭で、7月17日が夏祭。大祭や夏祭りでは箕田流の獅子舞や、石北宮守太神楽が奉納される。
境内社に、妻恋稲荷神社(日本武尊・弟橘媛命・稲倉魂神)がある。江戸時代後期の嘉永6年(1853年)に東京都文京区湯島の妻恋神社を勧請したもの。
他の境内社に、須賀社(建速須佐之男命など8柱)、大宮能費社(天宇受費命など7柱)がある。
陶製の脚の折れた狛犬一対が伝わる。
【ご利益】
厄災除け、交通安全、家内安全
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