大板の地を開発した多氏、平安期に遷座、楯築大明神・牟礼神社
[住所]三重県松阪市西黒部1746
[電話]-
意非多神社(おひたじんじゃ)は、三重県松阪市西黒部にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「意非多神社(伊勢国・飯野郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。社伝によれば、元明天皇の御代、奈良時代の和銅年間(708年-715年)に神八井耳命の後裔の多姓の人が大板の里を開拓した。
その子孫が移住し、産業を大いに奨励、推進させて、土地・人民の繁栄を祈るべく、大御食の神、伊毘志都幣命を奉斎したのを創祀とする。
里名の大板(おおいた)が「おいた」となり、社号が定着したという。また、これらの「た」は多氏を表す。
伊毘志都幣命は、『出雲国風土記』にみえる神で、出雲飯石郷に天下りした飯石社の御祭神である。多氏は一般的に大和であり、出雲飯石郷との関係は不詳。
平安時代の永保2年(1082年)夏、伊勢地方に暴風雨があって、櫛田川の堤防が決壊し、田畑600町あまりを潰し、神社12社が流失した。
その中に当社も含まれ、寛治元年(1087年)正月になって、現在の社地に奉遷し、楯築大明神と称するようになった。または立付大明神とも。
当地ゆかりの戦国の諸将、蒲生氏・古田氏・服部氏や紀伊大納言家などが当社を篤く信仰したことが今に伝えられている。
明治40年(1907年)6月から明治41年(1908年)5月にかけて、当社境内社の稲荷神社(豊受姫命)ほか11社を合祀し、現在に至っている。
御祭神は、伊毘志都幣命・豊受姫命・事代主命・須佐之男命・猿田彦命・市寸島姫命・大山咋命・大山祇神・少彦名神・天津日子根神・天目一命。
例祭は4月11日。2月11日が春祭で、10月21日が秋祭。
式内社「意非多神社」の論社は他に、立田町の穴師神社に合祀され、その後旧地に復社した朝田の式内および当社と同名の神社がある。
また、古くは牟礼神社とも呼ばれていたことから、当社を多気郡の式内社である「牟礼神社/牟禮神社」とする説もある。
「牟礼神社」は通常現在までに所在不明とされる。当社を含め、参考とされるものがいくつか存在する。
【ご利益】
五穀豊穣、産業振興、事業成功、商売繁盛

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意非多神社(おひたじんじゃ)は、三重県松阪市西黒部にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「意非多神社(伊勢国・飯野郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀年代は不詳。社伝によれば、元明天皇の御代、奈良時代の和銅年間(708年-715年)に神八井耳命の後裔の多姓の人が大板の里を開拓した。
その子孫が移住し、産業を大いに奨励、推進させて、土地・人民の繁栄を祈るべく、大御食の神、伊毘志都幣命を奉斎したのを創祀とする。
里名の大板(おおいた)が「おいた」となり、社号が定着したという。また、これらの「た」は多氏を表す。
伊毘志都幣命は、『出雲国風土記』にみえる神で、出雲飯石郷に天下りした飯石社の御祭神である。多氏は一般的に大和であり、出雲飯石郷との関係は不詳。
平安時代の永保2年(1082年)夏、伊勢地方に暴風雨があって、櫛田川の堤防が決壊し、田畑600町あまりを潰し、神社12社が流失した。
その中に当社も含まれ、寛治元年(1087年)正月になって、現在の社地に奉遷し、楯築大明神と称するようになった。または立付大明神とも。
当地ゆかりの戦国の諸将、蒲生氏・古田氏・服部氏や紀伊大納言家などが当社を篤く信仰したことが今に伝えられている。
明治40年(1907年)6月から明治41年(1908年)5月にかけて、当社境内社の稲荷神社(豊受姫命)ほか11社を合祀し、現在に至っている。
御祭神は、伊毘志都幣命・豊受姫命・事代主命・須佐之男命・猿田彦命・市寸島姫命・大山咋命・大山祇神・少彦名神・天津日子根神・天目一命。
例祭は4月11日。2月11日が春祭で、10月21日が秋祭。
式内社「意非多神社」の論社は他に、立田町の穴師神社に合祀され、その後旧地に復社した朝田の式内および当社と同名の神社がある。
また、古くは牟礼神社とも呼ばれていたことから、当社を多気郡の式内社である「牟礼神社/牟禮神社」とする説もある。
「牟礼神社」は通常現在までに所在不明とされる。当社を含め、参考とされるものがいくつか存在する。
【ご利益】
五穀豊穣、産業振興、事業成功、商売繁盛

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