小竹祝丸・天野祝丸の墓に和泉国皇大神を奉斎、丸笠山古墳
[住所]大阪府和泉市伯太町4丁目
[電話]0725-44-8182 - 泉井上神社
丸笠神社(まるがさじんじゃ )は、大阪府和泉市伯太町の丸笠山古墳にある神社。御朱印の有無は不明。現在は伯太神社の飛地境内社になっている。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 和泉郡「丸笠神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
社伝によれば、神功皇后が小竹宮の行宮に遷った時、勅命を受けて国内平定に尽くした武将小竹祝丸、天野祝丸の墓二つを造ったので、境内は車塚となったという。
近辺の信太村、現在の尾井の舊府神社を小竹宮の旧跡とする説もあるが、一般に『日本書紀』記載の小竹宮は、和歌山県の御坊市の小竹八幡神社か、紀の川市の志野神社などとされる。
小竹祝丸・天野祝丸は、『日本書紀』に記載されている紀州の神職のことで、「阿豆那比の罪」で知られる。天野祝は丹生都比売神社の祝のことで、小竹祝は先の小竹八幡神社か志野神社の祝のこと。
当社伝の武将と、『日本書紀』記載の神職という違いがあるが、『日本書紀』には「阿豆那比の罪」のための天変地異の解消を図り、二人を改葬した、とある。
その改葬地が丸笠山古墳ということだろうか。丸笠山古墳は4世紀築造とされる前方後円墳。ちょうど神功皇后の時代に符合はする。
当地に御諸別命(みもろわけのみこと)を和泉国皇大神として祀ったという。御諸別王は、第10代崇神天皇皇子である豊城入彦命の三世孫で、彦狭島王の子。
豊城入彦命は上毛野君・下毛野君の祖とされるが、実際には東国には至っておらず、実際に東国に赴いたのは御諸別王が最初。御諸別王が実質的な毛野氏族の祖である。
ただし、『新撰姓氏録』には皇別に、摂津国の韓矢田部造、和泉国の珍県主、和泉国の葛原部の祖と見える。和泉国皇大神なのだから、和泉国の二部族のどちらか。
なお、第12代景行天皇の孫で、稲背入彦命の子にも同名の御諸別命がいるとされるが、播磨国造の祖とされる。
当社について、平安時代、白河上皇が熊野御幸の際、当地で休憩し、ここで熊野を遙拝して病気平癒を祈念した。
後に回復したので、上皇は鳥居・影向石・磐境・御車駕などを寄進したという。この由縁により、素盞鳴尊を合祀したという。
南北朝時代の明徳3年(1392年)8月付の「丸笠神社縁起」によれば、当社はもとは南池田地区の宮里にあったという。
宮里は、国分・平井・黒石地区の古い地名。建武年間(1334年-1336年)、後醍醐天皇が奉塀し、境内を殺生禁断の地としたという。
東は大臣山の峯、南は伏見岸、西は河北、北は玉園小川を限り、その内の田畑山林を勅施入とした。
明治になり、伯太神社の宮寺で、その境内にあった禅宗の新宮山龍雲寺が廃され、当社はその跡地に遷座したという。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治44年(1911年)5月には神饌艘幣帛料供進社に指定された。
大正5年(1916年)、伯太神社の飛地境内社となった。ただ、前述のように、明治の初めごろに、当社は伯太神社の境内社になっていた。
本来、伯太神社は当社を合祀する予定だったが、それが内務省に認められず、結局当社を旧地に復して、飛地境内社とした、というのが真相のようだ。
当社の御祭神には諸説ある。今までの流れで、およそ定着しているのは、御諸別命・素戔嗚尊。ただし、明治初年には伊邪那美大神ともされたという。
しかし、伯太神社では、当社の御祭神を、天照皇大神(神功皇后)・武甕槌命(小竹祝丸)・経津主命(天野祝丸)・八雲大神(熊野大神)・天児屋根命としている。
【ご利益】
家内安全、地域安全、諸願成就

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丸笠神社(まるがさじんじゃ )は、大阪府和泉市伯太町の丸笠山古墳にある神社。御朱印の有無は不明。現在は伯太神社の飛地境内社になっている。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 和泉郡「丸笠神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
社伝によれば、神功皇后が小竹宮の行宮に遷った時、勅命を受けて国内平定に尽くした武将小竹祝丸、天野祝丸の墓二つを造ったので、境内は車塚となったという。
近辺の信太村、現在の尾井の舊府神社を小竹宮の旧跡とする説もあるが、一般に『日本書紀』記載の小竹宮は、和歌山県の御坊市の小竹八幡神社か、紀の川市の志野神社などとされる。
小竹祝丸・天野祝丸は、『日本書紀』に記載されている紀州の神職のことで、「阿豆那比の罪」で知られる。天野祝は丹生都比売神社の祝のことで、小竹祝は先の小竹八幡神社か志野神社の祝のこと。
当社伝の武将と、『日本書紀』記載の神職という違いがあるが、『日本書紀』には「阿豆那比の罪」のための天変地異の解消を図り、二人を改葬した、とある。
その改葬地が丸笠山古墳ということだろうか。丸笠山古墳は4世紀築造とされる前方後円墳。ちょうど神功皇后の時代に符合はする。
当地に御諸別命(みもろわけのみこと)を和泉国皇大神として祀ったという。御諸別王は、第10代崇神天皇皇子である豊城入彦命の三世孫で、彦狭島王の子。
豊城入彦命は上毛野君・下毛野君の祖とされるが、実際には東国には至っておらず、実際に東国に赴いたのは御諸別王が最初。御諸別王が実質的な毛野氏族の祖である。
ただし、『新撰姓氏録』には皇別に、摂津国の韓矢田部造、和泉国の珍県主、和泉国の葛原部の祖と見える。和泉国皇大神なのだから、和泉国の二部族のどちらか。
なお、第12代景行天皇の孫で、稲背入彦命の子にも同名の御諸別命がいるとされるが、播磨国造の祖とされる。
当社について、平安時代、白河上皇が熊野御幸の際、当地で休憩し、ここで熊野を遙拝して病気平癒を祈念した。
後に回復したので、上皇は鳥居・影向石・磐境・御車駕などを寄進したという。この由縁により、素盞鳴尊を合祀したという。
南北朝時代の明徳3年(1392年)8月付の「丸笠神社縁起」によれば、当社はもとは南池田地区の宮里にあったという。
宮里は、国分・平井・黒石地区の古い地名。建武年間(1334年-1336年)、後醍醐天皇が奉塀し、境内を殺生禁断の地としたという。
東は大臣山の峯、南は伏見岸、西は河北、北は玉園小川を限り、その内の田畑山林を勅施入とした。
明治になり、伯太神社の宮寺で、その境内にあった禅宗の新宮山龍雲寺が廃され、当社はその跡地に遷座したという。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治44年(1911年)5月には神饌艘幣帛料供進社に指定された。
大正5年(1916年)、伯太神社の飛地境内社となった。ただ、前述のように、明治の初めごろに、当社は伯太神社の境内社になっていた。
本来、伯太神社は当社を合祀する予定だったが、それが内務省に認められず、結局当社を旧地に復して、飛地境内社とした、というのが真相のようだ。
当社の御祭神には諸説ある。今までの流れで、およそ定着しているのは、御諸別命・素戔嗚尊。ただし、明治初年には伊邪那美大神ともされたという。
しかし、伯太神社では、当社の御祭神を、天照皇大神(神功皇后)・武甕槌命(小竹祝丸)・経津主命(天野祝丸)・八雲大神(熊野大神)・天児屋根命としている。
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