修験道の一大道場として隆盛、山頂一帯の社叢林は国立公園
[住所]兵庫県南あわじ市灘黒岩472
[電話]090-3990-5334
諭鶴羽神社(ゆづるはじんじゃ)は、兵庫県南あわじ市灘黒岩にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの諭鶴羽山。その山頂南側約400メートルに鎮座する。
三角点のある山頂には当社の御旅所があり、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がる。
創建は第9代開化天皇の治世と伝えられる。御祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。
狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放った。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んで隠れた。
狩人その跡を追って頂上に至ると、カヤの大樹があり、その梢に神が顕現、諭鶴羽権現と号したという。
また別に第10代崇神天皇の御代、西天竺の霊神が五つの剣を東に向かって投げ、紀伊国熊野三山・下野国日光山・出羽国羽黒山・豊前国英彦山・淡路国諭鶴羽山に留まったという。
平安時代の長寛元年(1163年)、『長寛勘文』「熊野権現御垂迹縁起伝」によれば、熊野神は英彦山から石鎚山、諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡ったとされる。
諭鶴羽参りは、平安時代になると修験道の一大道場として隆盛を誇った。『枕草子』にも「峰は ゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰」とある。
一帯に28宇の伽藍が建ち並び、熊野権現元宮・熊野本宮と称えられ、京の都にまでその名が聞こえた。
しかし室町時代の康正2年(1456年)、戦乱の兵火にかかり全山が焼亡した。天文年間(1532年-1555年)に美作城主の助力を得て十八宇が再興された。
だが、天文18年(1549年)6月9日、石川紀伊守の乱における兵火にかかり再度焼亡、以降衰微した。
再興の望みがないため、資料を後世へ伝えるべく天文21年(1552年)、美作の乗蔵らが各社堂・神仏を碑石に刻んで残した。
これらの碑石が奥宮である十二所神社に安置されている。
その後、江戸時代前期の承応年間(1652年-1654年)、徳島藩主蜂須賀氏により本殿、拝殿などが再建されたが、明治初年の神仏分離令によって衰退した。
参道である諭鶴羽古道は、表参道が一の鳥居のある灘黒岩から18町。裏参道が神代浦壁・賀集牛内から30町。1町ごとに町目地蔵が安置されている。
また古道から発掘された町石は南北朝時代初期の建武元年(1334年)銘で、在銘町石として県下最古のもの。
山頂一帯の社叢林は、国立公園の特別地域に指定され、照葉樹林が広がり、標高450メートルあたりから上のアカガシの極相林は県内一とされる。
県の天然記念物に指定されている。また南側斜面にはスイセンが約7ヘクタールにわたって自生しており、灘黒岩水仙郷として例年12月下旬から観光客を集めている。
4月第2土曜日の例祭の他、6月下旬から7月上旬には田植えの終了を感謝し豊作を祈願する毛付け参りがあり、7月第2土曜日には夏祭りがある。
境内には十二所神社の他、もとの当社とされ、篠山神社とも呼ばれる奥ノ院、水神社(彌都波之女尊)、厳島神社(市杵島姫ノ神)がある。
なお、市内神代國衙の久度神社には、当社の神主会が催されたとの由緒も伝わる。
神戸市東灘区には当社と同音の弓弦羽神社がある。弓弦羽神社がフィギュアスケート選手の羽生結弦ゆかりであるためか、当社も羽生結弦ファンの聖地の一つとされる場合がある。
なお、当社名や山名はユズリハが多く見られること、また、この山に群落をなす照葉樹が春から夏にかけて葉を更新していく様から名付けられたとされる。
【ご利益】
五穀豊穣、開運招福、家内安全、夫婦和合(公式HP)

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・兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
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諭鶴羽神社(ゆづるはじんじゃ)は、兵庫県南あわじ市灘黒岩にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
淡路島南部をほぼ東西に連なる諭鶴羽山地の西部にある標高607.9mの諭鶴羽山。その山頂南側約400メートルに鎮座する。
三角点のある山頂には当社の御旅所があり、毎年4月第2土曜日に行われる春の例大祭には神輿が上がる。
創建は第9代開化天皇の治世と伝えられる。御祭神は伊弉冉尊・速玉男命・事解男命。
狩人が鶴の舞い遊ぶのを見て、矢を放った。羽に矢を負った鶴は、そのまま東の方の峰に飛んで隠れた。
狩人その跡を追って頂上に至ると、カヤの大樹があり、その梢に神が顕現、諭鶴羽権現と号したという。
また別に第10代崇神天皇の御代、西天竺の霊神が五つの剣を東に向かって投げ、紀伊国熊野三山・下野国日光山・出羽国羽黒山・豊前国英彦山・淡路国諭鶴羽山に留まったという。
平安時代の長寛元年(1163年)、『長寛勘文』「熊野権現御垂迹縁起伝」によれば、熊野神は英彦山から石鎚山、諭鶴羽山を経て熊野新宮・神蔵の峯へ渡ったとされる。
諭鶴羽参りは、平安時代になると修験道の一大道場として隆盛を誇った。『枕草子』にも「峰は ゆずるはの峰 あみだの峰 いや高の峰」とある。
一帯に28宇の伽藍が建ち並び、熊野権現元宮・熊野本宮と称えられ、京の都にまでその名が聞こえた。
しかし室町時代の康正2年(1456年)、戦乱の兵火にかかり全山が焼亡した。天文年間(1532年-1555年)に美作城主の助力を得て十八宇が再興された。
だが、天文18年(1549年)6月9日、石川紀伊守の乱における兵火にかかり再度焼亡、以降衰微した。
再興の望みがないため、資料を後世へ伝えるべく天文21年(1552年)、美作の乗蔵らが各社堂・神仏を碑石に刻んで残した。
これらの碑石が奥宮である十二所神社に安置されている。
その後、江戸時代前期の承応年間(1652年-1654年)、徳島藩主蜂須賀氏により本殿、拝殿などが再建されたが、明治初年の神仏分離令によって衰退した。
参道である諭鶴羽古道は、表参道が一の鳥居のある灘黒岩から18町。裏参道が神代浦壁・賀集牛内から30町。1町ごとに町目地蔵が安置されている。
また古道から発掘された町石は南北朝時代初期の建武元年(1334年)銘で、在銘町石として県下最古のもの。
山頂一帯の社叢林は、国立公園の特別地域に指定され、照葉樹林が広がり、標高450メートルあたりから上のアカガシの極相林は県内一とされる。
県の天然記念物に指定されている。また南側斜面にはスイセンが約7ヘクタールにわたって自生しており、灘黒岩水仙郷として例年12月下旬から観光客を集めている。
4月第2土曜日の例祭の他、6月下旬から7月上旬には田植えの終了を感謝し豊作を祈願する毛付け参りがあり、7月第2土曜日には夏祭りがある。
境内には十二所神社の他、もとの当社とされ、篠山神社とも呼ばれる奥ノ院、水神社(彌都波之女尊)、厳島神社(市杵島姫ノ神)がある。
なお、市内神代國衙の久度神社には、当社の神主会が催されたとの由緒も伝わる。
神戸市東灘区には当社と同音の弓弦羽神社がある。弓弦羽神社がフィギュアスケート選手の羽生結弦ゆかりであるためか、当社も羽生結弦ファンの聖地の一つとされる場合がある。
なお、当社名や山名はユズリハが多く見られること、また、この山に群落をなす照葉樹が春から夏にかけて葉を更新していく様から名付けられたとされる。
【ご利益】
五穀豊穣、開運招福、家内安全、夫婦和合(公式HP)

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