『古事記』の巨木伝説と太陽信仰、町村合併で市内鬼門に鎮座
[住所]大阪府高石市取石2-14-48
[電話]072-271-0553

等乃伎神社(とのぎじんじゃ)は、大阪府高石市取石にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 大鳥郡「等乃伎神社」に比定される式内社(小社、鍬靫)。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。『古事記』下巻の第16代仁徳天皇の段に、下記の話が掲載されている(『古事記』該当箇所)。
兔寸河の西に一本の高い樹木があった。その樹木に朝日があたれば影は淡路島におよび、夕日があたればその影は高安山を超えた。

ある日、この樹木を伐って枯野と呼ばれる船を作り、朝な夕なに淡路島の清水を汲んで、その聖水を天皇に献上した。

この船が壊れてから、その廃材を焼いて塩を作り、その時、燃えない材木があったので琴を作ったところ、素晴らしい音色を発し、遠くの村里にまで響きわたった。
「兔寸河」は、当社の東南を流れる富木川のことで、また、南北朝時代に焼討ちに遭う以前、当境内には多数の楠の巨木がそびえていた。

それは、多くの焼株の発掘で確認されており、古来、富木村に船を作るための楠の巨木が豊富に茂っていたことが想像される。

また往古、海岸線は当社に接近していたと考えられ、それは、当氏地の大園遺跡の発掘物の中に多数の漁貝類が存在したことでも証明されている。

「とのぎ」は、古代朝鮮の新羅語では「日の出・朝日」を意味するという。高安山の頂上に立てば、当社の方角に冬至の太陽が沈む。

当社側からみると、高安山の頂上に夏至の「日の出」を拝むことになる。冬至の日に高安山頂から日が昇る位置には坐摩神社が鎮座していた。

冬至の日は、1年のうちで最も日中の時間が短く、太陽の活力が弱まっていると考えられ、そしてこの日を境にして、太陽の活力は夏至の日に向って盛り返す。

「兔寸」は「とき」とも読め、トキ野が訛ったトガ野に、坐摩神社が鎮座し、当社とともに太陽祭祀の重要な場所だったことが考えられる。

また、当社地から1キロほど西北西に日部神社の旧地があり、当社・日部神社・金剛山頂は一直線に並び、冬至の日の出線になっているという指摘もある。

なお、この巨樹に関しては、岸和田市の包近町の楠本神社、摩湯町の淡路神社と関連するとの説がある。

現在の取石についても、『万葉集』で歌われている。
巻10 2166
妹が手を 取石の池の 波の間ゆ 鳥が音異に鳴く 秋過ぬらし
『続日本紀』天平勝宝4年(752年)の条に、「中臣殿来連竹田売」とある。中臣氏の一族である殿来連が祖神である天児屋根命を当社に奉祀した。

また、その年に太政大臣藤原武智麻呂、その子の大納言恵美押勝(藤原仲麻呂)が相次いで当地に来て居住したと伝わり、藤原氏とのつながりが強かった。

主祭神は天児屋根命。当社では特に、天照大神の侍神と位置付ける。

古くは和泉国大鳥郡の富木村・市場村(綾井)・南出村(綾井)・大園村・土生村・新家村のそれぞれの氏神として崇敬された。

明治41年(1908年)1月、市場村の稲荷神社、明治42年(1908年)1月、大園村の壺神社、土生村の菅原神社、新家村の大歳神社を合祀した。

明治42年2月には、延喜式内社の南出村の大歳神社(小社、鍬)も合祀。旧泉北郡取石村1ヶ村の氏神となった。

現在までに、大歳大神・壺大神・菅原道真公・誉田別尊を相殿に祀る。境内社に摂社の稲荷社(宇賀之御魂神)、末社に天御中主神を祀る。

その後の町村合併で、昭和41年(1966年)には高石市となり、当社は、奇しくも市の東北に鎮座する鬼門の守護神となった。

現在の社殿は江戸時代後期の天保9年(1838年)以来、150年ぶりに昭和62年(1987年)に造営されたもの。

その造営時にも境内から平安・鎌倉期の古瓦が出土しており、往古はかなり大規模な社殿があったことが分かっている。

さらにさか上って、江戸時代前期の延宝7年(1679年)11月17日造営の社殿は、美しい朱塗りのニ殿だったという。

例祭は10月5日。だんじりの宮入りが行われる。大鳥羽衣濱神社高石神社とともに羽衣地車祭と総称される。

境内地は2694坪、古くは「霞の森」と称され樹木が繁茂していた。南北朝の戦乱時代、この森に逃げ隠れた武士団が、立ち込めた霞のおかげで命拾いしたという社伝がある。

【ご利益】
スポーツ・技芸上達、厄災除け、開運招福、商売繁盛など(公式HP
等乃伎神社 大阪府高石市取石
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