白河の関跡の比定の決め手となった社、義経や政宗などの崇敬
[住所]福島県白河市旗宿関ノ森120
[電話]0248-32-2921 - 白河関の森公園

白河神社(しらかわじんじゃ)は、福島県白河市旗宿関ノ森にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「白河神社(陸奥国・白河郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。

栃木県との県境の近く、有名な白河関跡内に鎮座している。というよりも、白河の関跡は、当社鎮座地によって比定された。

後先が逆。この比定が正しいとしても、おそらく関の歴史よりも当社の方が古く、関ができてからは、関の守護神となったかもしれない。

境内は、特別史跡名勝天然記念物に指定されている。関の明神、二所関明神とも呼ばれた。大相撲の「二所の関部屋」の由来である。

社伝によれば、第13代成務天皇5年9月、白河国造である鹽伊乃己自直(鹽伊乃自直命)を祀ったのが創祀だという。

その後、時を隔てて奈良時代の宝亀2年(771年)3月、天太玉命・住吉明神・中筒男命・玉津島明神・衣通姫命を祀った。白河の関ができたのもこの頃以降だと思われる。

鹽伊乃自直命は天降天由都彦命(あまくだるあまのゆつひこのみこと)の十一世孫である。

天降天由都彦命は阿岐国造の祖とされる天湯津彦命と同じとされ、東山道系の国造では、信夫国造、染羽国造、伊久国造、思国造が同祖となる。

白河国造の祖を祀った神社として、『続日本紀』の宝亀11年(781年)12月丁巳の條に、「祈桃生白河等郡神一十一社」とあり、この中に当社も含まれると考えられている。

また、『新抄格勅符抄』の大同元年(806年)の牒には、「白河神、二戸、同國(陸奥國)同年十月廿日符」とあり、これも当社に比定される。

式内社「白河神社」の論社は他に、市内大鹿島の白河鹿嶋神社があるが、この鹿島神社の創祀や創建が上述の年代に符合しない、との見方が強い。

つまり、当社の式内比定が有力ということか。また、当社近くからは下記の文のある碑が検出されており、傍証となっている。
白河神社別當法主 石積権大法師位 弘安五年壬午八月十七日
鎌倉時代の弘安5年(1282年)には、当社の現社号と式内社名が一致した形で、定着していたことが分かる。

平安時代の永承7年(1053年)、源頼義、義家などが稲田を奉献し、治承4年(1180年)、源義経が平家追討のため平泉を発し、当社に戦勝を祈願した。

その際、義経が矢を射立てたと伝えられるのが矢立の松。戦時中、無事と戦勝を祈願して、その枯片を持ち去り、今は少量の根を残すのみとなっている。

さらに寿永3年(1184年)3月9日には義経が、文治5年(1189年)には源頼朝などが金弊を奉献したという。

鎌倉時代初期、従二位藤原家隆が手植し、奉納したと伝えられる老木が従二位の杉として現存している。樹齢800年、周囲約5メートル。

江戸時代初期の元和元年(1615年)、伊達政宗が社殿を改築したと伝わり、本殿の棟紋に九曜星、縦三引きの紋が刻まれている。

江戸時代後期の寛政12年(1800年)、白河藩主松平定信は文献による考証を行い、当社地こそが、所在不明となっていた古跡の白河の関跡であると断じた。

楽翁とも呼ばれる定信によるこの比定に基づき、建立された碑が建てられている。境内には、以下の古歌碑がある。
平兼盛
便りあらば いかで都へつけやらむ 今日白川の 関はこえぬと
能因法師
都をば 霞とともに 立ちしかど 秋風ぞ吹く 白河の関
梶原景季
秋風に 草木の露を はらわせて 君がこゆれば 関守もなし
境内社に、雷神社・若木神社・愛宕神社・神明神社・大山祇神社・熊野神社・天神神社・八雲神社・稲荷神社などがある。

【ご利益】
旅行・交通安全、武運長久・勝運、学業・受験合格
白河神社 福島県白河市旗宿関ノ森
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