磐梯山、東北地方最古の慧日寺の守護神、船引き祭りと巫女舞
[住所]福島県耶麻郡磐梯町磐梯八幡
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磐梯神社(ばんだいじんじゃ)は、福島県耶麻郡磐梯町磐梯八幡にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「磐椅神社(陸奥国・耶磨郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

御祭神は、大山祇命埴山姫命。『明治神社誌料』によると、磐梯山は往古、風土病である熱病が流行し、病脳山と称された。

また、山の東南に月輪・更科の二荘があり、平安時代の大同元年(806年)、一夜にして湖水となり、多くの民が溺死した。

弘法大師空海が勅を奉じて当地に来て、妖蛇を山の西麓の烏帽子ケ嶽に鎮め、山の名を磐梯山と改めた。

空海は、三鈷杵を空中に放ち、落ちた場所に一大伽藍を建立し、密教興隆の場とした。その土地が妖蛇の尾の端だったため、尾寺と称し、後に大寺と呼ばれるようになった。

これが、大同2年(807年)に法相宗の僧である徳一によって開かれた慧日寺(恵日寺)のこと、とされる。

慧日寺は東北地方では開基の明らかな寺院としては最古のもの。会津五薬師の一つ、東方薬師として信仰されていた。

当社は同年、慧日寺の守護神として勧請され、奥宮として祀られたという。創祀はおそらく、磐梯山を御神体山としたものだったのだろう。

安土桃山時代の天正17年(1589年)、磨上合戦で伊達軍によって慧日寺は金堂以外の全てを焼失した。

江戸時代初期の寛永3年(1626年)には、その金堂も火災で失われ、12年後、その跡地に薬師堂が建立された。

明治初年の廃仏毀釈により、薬師堂は当社になったが、明治5年(1872年)6月の火災で焼失した。

焼け残った仁王門は移築され、中に御神体が安置された。明治19年(1886年)に郷社に昇格した。大正12年(1923年)、慧日寺薬師堂跡に神殿が建立された。

昭和45年(1970年)、慧日寺跡が国の史跡に指定され、復元整備が計画されたことにより、当社は現在地に移転した。

慧日寺から当社に「舟引き祭り」が引き継がれている。会津仏教文化発祥の源といわれる慧日寺の祭りとして、歴史を誇る伝統行事。

飯舟(いいふね)と呼ばれる木舟に米俵を3俵重ね、舟の両端に2本の綱をつけ、氏子が東西に分かれ引き合う。

3回勝負で、東が勝てば「豊作」、西が勝てば「米の値段が上がる」というその年の作柄を占う神事。その判定は、磐梯明神が直接姿を現し、行なわれる。

舟引きの日に少女たちによって厳かに舞われる「巫女舞」がある。「榊の舞」「弓の舞」「太刀の舞」があり、通常は4人1組で行なわれ、古式の舞が奉納される。

なお、式内社「磐椅神社」の論社は他に、猪苗代町西峰に式内同名神社がある。

【ご利益】
家内安全、五穀豊穣、事業成功、子宝
磐梯神社 福島県耶麻郡磐梯町磐梯八幡
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