住吉七社の一つ、海湾の岩山を奉斎、江戸前期社殿や流鏑馬
[住所]福島県いわき市小名浜住吉字住吉1
[電話]0246-58-4526
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、福島県いわき市小名浜住吉にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「住吉神社(陸奥国・磐城郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
当地は往古、海湾で、その湾内にあった小さな岩山が、海食の跡を残して現存する。
この岩山は当時、船を出していた人々にとって灯台と同じような役割を果たし、帰るべきところの目印、生活を守る大切な存在だった。
やがてこの岩山が神格化され、その麓に社が祀られるようになったのが当社の創始だという。
第12代景行天皇の御代、建内宿禰が勅命を奉じて東北地方を巡視した。
その時、この地が陸と海との要害の地で、東北の関門にもあたるため、航海安全と国家鎮護のため、東北総鎮守として祀られたという。
御祭神は、表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉三神。『延喜式神名帳』に記載がある住吉神社の七社、いわゆる住吉七社の一つ。
また、『住吉大社神代記』の「九大神宮所在九箇処」には含まれない、住吉大社と直接の関係のない住吉神社として知られる。
第70代御冷泉天皇の康平7年(1064年)、勅使が参向し、東国の賊徒の平定が祈願された。
また、源頼義は源氏の宝刀「鵜の丸の剣(うのまるのつるぎ)」を寄進し、武運を祈念したという。この剣が現在にまで伝わるという。
この頼義にまつわる縁起が、摂社の八幡神社や、現在まで続く流鏑馬の伝統と関連している可能性がある。
鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進、また、豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、江戸時代には20石の朱印地を有していた。
江戸時代中期、磐城平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きが変えられた。
その時、内藤家より幅5間、長さ200間の参道が寄進された。現在も道路として残るこの参道は馬場とも呼ばれ、馬の訓練にも使用できる真っ直ぐなもの。
この道路に沿う町を新町と呼び、狭く、また少し曲がっている従来の北側の参道沿いを大町と呼ぶ。
この地は藤原川と矢田川に囲まれ、それらの川の度重なる氾濫により、経済的には恵まれず、明治になっても神職の常駐がなかった。
明治4年(1871年)には郷社に列し、大正7年(1918年)には神饌幣帛供進社に指定されたが、その当時は、近隣の湯本に鎮座する温泉神社の神職が兼務していた。
昭和初期になり、社掌として渡邊繁が着任、昭和3年(1928年)には県社に昇格した。戦後はそのまま宮司となった。
江戸時代前期の寛永18年(1642年)再建の本殿は、昭和32年(1957年)に大改修され、翌年には県の重要文化財に指定された。
江戸前期の桃山様式、三間社流造で、屋根の形や懸魚飾りや、銅羽目に特徴がある。
境内には、当社創祀の磯山の他、臥龍銀杏、月見の池、星見の池、生木の橋・太鼓橋などがあり、摂社として八幡神社がある。
他の境内社に、諏訪神社(建御名方神)、雷神社(別雷神)、久須志神社(少彦名神)、北野神社(菅原道真)などがある。
例祭は10月13日。この日に近い金・土曜日、あるいは土・日曜日に勅使参向式、流鏑馬、巫女舞などの神振行事が行われる。市の無形文化財に指定されている。
実際に勅使が参向するわけではなく、平安期の勅使による奉幣の故事に基づいた行事で、氏子の中の5歳から8歳までの長男が勅使役となる。
社宝として、先の「鵜の丸の剣」の他、市の文化財である絵馬「鬼と力士の首綱引き」、東郷平八郎の筆になる神額、平安時代の作とされる狛犬一対などがある。
【ご利益】
厄災除け、出世開運、学業・受験合格、交通安全(公式HP)
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[電話]0246-58-4526
住吉神社(すみよしじんじゃ)は、福島県いわき市小名浜住吉にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「住吉神社(陸奥国・磐城郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
当地は往古、海湾で、その湾内にあった小さな岩山が、海食の跡を残して現存する。
この岩山は当時、船を出していた人々にとって灯台と同じような役割を果たし、帰るべきところの目印、生活を守る大切な存在だった。
やがてこの岩山が神格化され、その麓に社が祀られるようになったのが当社の創始だという。
第12代景行天皇の御代、建内宿禰が勅命を奉じて東北地方を巡視した。
その時、この地が陸と海との要害の地で、東北の関門にもあたるため、航海安全と国家鎮護のため、東北総鎮守として祀られたという。
御祭神は、表筒之男命・中筒之男命・底筒之男命の住吉三神。『延喜式神名帳』に記載がある住吉神社の七社、いわゆる住吉七社の一つ。
また、『住吉大社神代記』の「九大神宮所在九箇処」には含まれない、住吉大社と直接の関係のない住吉神社として知られる。
第70代御冷泉天皇の康平7年(1064年)、勅使が参向し、東国の賊徒の平定が祈願された。
また、源頼義は源氏の宝刀「鵜の丸の剣(うのまるのつるぎ)」を寄進し、武運を祈念したという。この剣が現在にまで伝わるという。
この頼義にまつわる縁起が、摂社の八幡神社や、現在まで続く流鏑馬の伝統と関連している可能性がある。
鎌倉幕府は数千貫の社領を寄進、また、豊臣秀吉の時代は70石の神領が認められ、江戸時代には20石の朱印地を有していた。
江戸時代中期、磐城平藩の領主であった内藤家においてお家騒動などが続き、その原因が平城を睨んで建つ当社にあるとされ、社殿の向きが変えられた。
その時、内藤家より幅5間、長さ200間の参道が寄進された。現在も道路として残るこの参道は馬場とも呼ばれ、馬の訓練にも使用できる真っ直ぐなもの。
この道路に沿う町を新町と呼び、狭く、また少し曲がっている従来の北側の参道沿いを大町と呼ぶ。
この地は藤原川と矢田川に囲まれ、それらの川の度重なる氾濫により、経済的には恵まれず、明治になっても神職の常駐がなかった。
明治4年(1871年)には郷社に列し、大正7年(1918年)には神饌幣帛供進社に指定されたが、その当時は、近隣の湯本に鎮座する温泉神社の神職が兼務していた。
昭和初期になり、社掌として渡邊繁が着任、昭和3年(1928年)には県社に昇格した。戦後はそのまま宮司となった。
江戸時代前期の寛永18年(1642年)再建の本殿は、昭和32年(1957年)に大改修され、翌年には県の重要文化財に指定された。
江戸前期の桃山様式、三間社流造で、屋根の形や懸魚飾りや、銅羽目に特徴がある。
境内には、当社創祀の磯山の他、臥龍銀杏、月見の池、星見の池、生木の橋・太鼓橋などがあり、摂社として八幡神社がある。
他の境内社に、諏訪神社(建御名方神)、雷神社(別雷神)、久須志神社(少彦名神)、北野神社(菅原道真)などがある。
例祭は10月13日。この日に近い金・土曜日、あるいは土・日曜日に勅使参向式、流鏑馬、巫女舞などの神振行事が行われる。市の無形文化財に指定されている。
実際に勅使が参向するわけではなく、平安期の勅使による奉幣の故事に基づいた行事で、氏子の中の5歳から8歳までの長男が勅使役となる。
社宝として、先の「鵜の丸の剣」の他、市の文化財である絵馬「鬼と力士の首綱引き」、東郷平八郎の筆になる神額、平安時代の作とされる狛犬一対などがある。
【ご利益】
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