平家落人伝承と、平家再興を祈願する百手の儀式、式内旧地とも
[住所]兵庫県美方郡香美町香住区余部2900-2
[電話]0796-34-0219
平内神社(ひらうちじんじゃ)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部にある神社。通称は、平内さん(へいないさん)。平家落人伝承と百手の儀式で知られる。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「伊伎佐神社三座(但馬国・美含郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
平安時代末期の寿永4年(1185年)、壇ノ浦の戦いで敗れた平清盛の異母弟である門脇宰相平中納言教盛は、遠く壱岐、対馬方面に逃れようとした。
その同じ船に乗船していたのが、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門など。しかし船は日本海を漂流し、当地近くに流れ着き、一行は磯づたいに御崎まで落ち延びた。
以来、彼らは当地に土着し、現在も当地には門脇家・矢引家が続いている。御崎集落の入口には記念の石碑や墓石が立っている。
御崎にはこの地にしか育たないといわれる「平家蕪(へいけかぶら)」という蕪が自生している。
平家がこの地に身を寄せた際、土地がやせた人里離れた場所だったため、たちまち食料に窮し、神に祈願したところ、この蕪に恵まれるようになったという。
当社は、鎌倉時代前期の正治2年(1200年)6月の創祀。現在の御祭神は野椎神だが、もとは平教盛と伊賀平内左衛門家長の御霊荒神を祀る神社だった。
境内近くには、平教盛の墓がある。
毎年1月28日15時半頃から行われている「百手の儀式」は、平家の無念を晴らすとともに、士気を鼓舞し、平家再興を夢見て受け継がれてきた伝統行事である。
門脇・伊賀・矢引の武将に扮した3人の少年が、境内の御神木に源氏に見立て掲げた的めがけて、地区内で採取した竹で作った弓で101本の矢を射るもの。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣が起り、豊臣秀頼が勇士を諸国に募った際、当時の門脇氏・矢引氏も参陣。しかしその後、和睦により、帰郷した。
翌慶長20年(1615年)、夏の陣が起こると、再びこれに加わろうとしたが、当社で占ったところ、凶と出たので、参陣を取り止めたという。
江戸時代中期の寛延3年(1750年)には御崎大明神に、宝暦9年(1759年)には三寶荒神山王権現に改称した。
宝暦14年(1764年)3月21日、遷宮が行われ、嘉永元年(1848年)9月、山王権現が再建され、正遷宮が行われた。これが現在の境内社である日吉神社。
また、幕末の安政2年(1855年)6月、本殿が再建された。明治になり、明治6年(1873年)10月、村社に列した。例祭は10月1日。
鎌倉時代の創祀であり、当社そのものが式内社である可能性はない。
しかし、式内社「伊伎佐神社三座」について、『神祇志料』では、伊笹岬の麓に比定し、『但馬考』では、御崎集落の三寶社に比定している。
他の論社に、伊伎佐神社があるが、当地は伊伎佐神社の旧地だったという説がある。式内旧地に、平家落人が定住し、奉斎された、ということなのかもしれない。
【ご利益】
諸願成就、交通安全、旅行安全

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『延喜式神名帳』にある「伊伎佐神社三座(但馬国・美含郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
平安時代末期の寿永4年(1185年)、壇ノ浦の戦いで敗れた平清盛の異母弟である門脇宰相平中納言教盛は、遠く壱岐、対馬方面に逃れようとした。
その同じ船に乗船していたのが、伊賀平内左衛門家長、矢引六郎右衛門など。しかし船は日本海を漂流し、当地近くに流れ着き、一行は磯づたいに御崎まで落ち延びた。
以来、彼らは当地に土着し、現在も当地には門脇家・矢引家が続いている。御崎集落の入口には記念の石碑や墓石が立っている。
御崎にはこの地にしか育たないといわれる「平家蕪(へいけかぶら)」という蕪が自生している。
平家がこの地に身を寄せた際、土地がやせた人里離れた場所だったため、たちまち食料に窮し、神に祈願したところ、この蕪に恵まれるようになったという。
当社は、鎌倉時代前期の正治2年(1200年)6月の創祀。現在の御祭神は野椎神だが、もとは平教盛と伊賀平内左衛門家長の御霊荒神を祀る神社だった。
境内近くには、平教盛の墓がある。
毎年1月28日15時半頃から行われている「百手の儀式」は、平家の無念を晴らすとともに、士気を鼓舞し、平家再興を夢見て受け継がれてきた伝統行事である。
門脇・伊賀・矢引の武将に扮した3人の少年が、境内の御神木に源氏に見立て掲げた的めがけて、地区内で採取した竹で作った弓で101本の矢を射るもの。
慶長19年(1614年)、大阪冬の陣が起り、豊臣秀頼が勇士を諸国に募った際、当時の門脇氏・矢引氏も参陣。しかしその後、和睦により、帰郷した。
翌慶長20年(1615年)、夏の陣が起こると、再びこれに加わろうとしたが、当社で占ったところ、凶と出たので、参陣を取り止めたという。
江戸時代中期の寛延3年(1750年)には御崎大明神に、宝暦9年(1759年)には三寶荒神山王権現に改称した。
宝暦14年(1764年)3月21日、遷宮が行われ、嘉永元年(1848年)9月、山王権現が再建され、正遷宮が行われた。これが現在の境内社である日吉神社。
また、幕末の安政2年(1855年)6月、本殿が再建された。明治になり、明治6年(1873年)10月、村社に列した。例祭は10月1日。
鎌倉時代の創祀であり、当社そのものが式内社である可能性はない。
しかし、式内社「伊伎佐神社三座」について、『神祇志料』では、伊笹岬の麓に比定し、『但馬考』では、御崎集落の三寶社に比定している。
他の論社に、伊伎佐神社があるが、当地は伊伎佐神社の旧地だったという説がある。式内旧地に、平家落人が定住し、奉斎された、ということなのかもしれない。
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