飛鳥末期の疫病で奉斎された一社、後に二座を勧請した式内三座
[住所]兵庫県美方郡香美町香住区余部2746-2
[電話]0796-34-0219
伊伎佐神社(いきさじんじゃ)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「伊伎佐神社三座(但馬国・美含郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
余部漁港や有名な余部鉄橋の近くにあり、当社境内からも鉄橋を見ることができる。
社伝によれば、奈良時代直前の飛鳥時代末期、文武天皇の慶雲3年(706年)7月、疫病が流行したため、諸国に命じて神祇を祀らせた。
その際、当地では、美含大領である椋椅連小柄が彦坐王命を伊伎佐の丘に勧請したという。
奈良時代の神亀5年(728年)5月、美含大領である従八位上矢田部連守柄が基族の勇山連市牛麿に命じ、部民を率いて田畑を開拓させた際、勇山連市牛麿の祖神である出雲色男命を勧請した。
さらに天平7年(735年)、伊伎佐神の託宣により、伊弉諾尊を勧請し、主祭神とした。
平安時代前期の嘉祥4年(851年)正月27日、伊伎佐神は正六位上に進んだ。延喜22年(922)春3月には、奉幣の儀があり、官社に列した。
鎌倉時代の文永7年(1270年)5月、元寇により、その退散祈願のため、神主である中臣志斐連景信が男山八幡宮(応神天皇)と、中臣氏の祖神である天児屋根命を勧請した。
その際、社殿の造営があったとされる。他に、江戸時代前期の天和2年(1682年)、貞享2年(1685年)に社殿が造営されている。
江戸時代には「伊楽大明神」「伊伎佐大明神」と呼ばれていた。明治6年(1873年)10月、村社に列した。
明治26年(1893年)、洪水により、境内の宮嶋神社と下照神社が流出したという。洪水前の境内は、現在の倍の広さだったという。
例祭は7月15日で、神幸式、神輿度御があるという。境内社に、稲荷社、お産の神・三柱社、恵比須社などがある。
なお、式内社「伊伎佐神社三座」の論社は他に、近くの平内神社があり、当社の旧地とされる。その場合、遷座の時期などは不明。
【ご利益】
厄災除け、災害除け、事業成功、家内安全

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伊伎佐神社(いきさじんじゃ)は、兵庫県美方郡香美町香住区余部にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「伊伎佐神社三座(但馬国・美含郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
余部漁港や有名な余部鉄橋の近くにあり、当社境内からも鉄橋を見ることができる。
社伝によれば、奈良時代直前の飛鳥時代末期、文武天皇の慶雲3年(706年)7月、疫病が流行したため、諸国に命じて神祇を祀らせた。
その際、当地では、美含大領である椋椅連小柄が彦坐王命を伊伎佐の丘に勧請したという。
奈良時代の神亀5年(728年)5月、美含大領である従八位上矢田部連守柄が基族の勇山連市牛麿に命じ、部民を率いて田畑を開拓させた際、勇山連市牛麿の祖神である出雲色男命を勧請した。
さらに天平7年(735年)、伊伎佐神の託宣により、伊弉諾尊を勧請し、主祭神とした。
平安時代前期の嘉祥4年(851年)正月27日、伊伎佐神は正六位上に進んだ。延喜22年(922)春3月には、奉幣の儀があり、官社に列した。
鎌倉時代の文永7年(1270年)5月、元寇により、その退散祈願のため、神主である中臣志斐連景信が男山八幡宮(応神天皇)と、中臣氏の祖神である天児屋根命を勧請した。
その際、社殿の造営があったとされる。他に、江戸時代前期の天和2年(1682年)、貞享2年(1685年)に社殿が造営されている。
江戸時代には「伊楽大明神」「伊伎佐大明神」と呼ばれていた。明治6年(1873年)10月、村社に列した。
明治26年(1893年)、洪水により、境内の宮嶋神社と下照神社が流出したという。洪水前の境内は、現在の倍の広さだったという。
例祭は7月15日で、神幸式、神輿度御があるという。境内社に、稲荷社、お産の神・三柱社、恵比須社などがある。
なお、式内社「伊伎佐神社三座」の論社は他に、近くの平内神社があり、当社の旧地とされる。その場合、遷座の時期などは不明。
【ご利益】
厄災除け、災害除け、事業成功、家内安全

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