流された蛭子命が漂着「日本最古の戎宮」、12月やっさいもっさい
[住所]大阪府堺市西区浜寺石津町中4-12-7
[電話]072-241-5640
石津太神社(いわつたじんじゃ)は、大阪府堺市西区浜寺石津町中にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 大鳥郡「石津太社神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
当地はもとは浜辺で、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命(戎大神)がこの地に漂着し、携えてきた五色の御神石を置いたという。
蛭子命が漂着した場所、現在の石津川北岸の大阪湾手前の河口を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。
漂着地は現在、当社の御旅所として祀られている。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。
第5代孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命と、石津連の祖神である天穂日命を合祀した。
この由緒により、似たような由緒を持つ、式内論社である堺区石津町の石津神社とともに、「日本最古の戎宮」と呼ばれる。
平安時代以後、朝廷の崇敬を受け、何度かの御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間(1615年-1624年)までに数度の兵火で社殿が焼失した。
豊臣秀吉が大坂城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。
江戸時代中期の明和5年(1768年)、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。
全国に崇敬者があり、翌明和6年(1769年)には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をした。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治41年(1908年)、浜寺村大字船尾の諏訪神社(建御名方富命)を合祀した。天照大神(靱大神宮)を配祀している。
江戸時代前期に造営された本殿が二殿あり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造。
江戸時代中期の宝暦年間(1751年-1764年)に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっている。
境内末社に、磐山稲荷社・八幡神社・白蛇社がある。境内には、蛭子命が腰を掛けたと言われる大石が存在する。
鳥居の扁額は三条実美が参拝時に書いたとされている。鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。
例祭は10月5日に近い土曜日。ふとん太鼓が出て、かつぎあいやパレードが行われる。1月には十日戎もある。
毎年12月14日には「泉州の奇祭」といわれる「やっさいもっさい/ヤッサイホッサイ祭り」という火祭が行われる。
これは往古、蛭子命が漂着した際、付近の住民が篝火を炊いて迎えたという古儀にちなむ。
願い事を書いた紙を貼った108束の御神木を参道に積んで神職が点火し、燃えて倒れた方角で吉凶を占う。
東に倒れることを「おかましや」といい豊穣に、西に倒れることを「はまましや」といい豊漁になるとされる。
次いで戎神に仮装した神人を3人の男衆が担ぎ、火渡りを3度繰り返し社地を3周する際に「やっさいほっさい」と掛声する。
戎神の火渡りが終わると参拝者たちが火渡りを行う。もみ消した灰や燃え殻は、歯痛などの痛み止めや厄除けになると信じられている。
なお、類似した名称の祭りとして、千葉県木更津市で行われる「やっさいもっさい」があるが、こちらは火渡り行事ではなく、踊りであるため無関係である。
【ご利益】
五穀豊穣・大漁満足・商売繁盛・事業成功
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石津太神社(いわつたじんじゃ)は、大阪府堺市西区浜寺石津町中にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 和泉国 大鳥郡「石津太社神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
当地はもとは浜辺で、伝承では、伊奘諾命・伊奘册命によって流された蛭子命(戎大神)がこの地に漂着し、携えてきた五色の御神石を置いたという。
蛭子命が漂着した場所、現在の石津川北岸の大阪湾手前の河口を「石津の磐山」、「五色の石」を置いた場所を「石津」という。
漂着地は現在、当社の御旅所として祀られている。鳥居の前の交差点に「五色の石」を地下に埋めたとされる場所があり、その場所を示す地上部分に石が置かれている。
第5代孝昭天皇7年8月10日、勅命により蛭子命を祀る社殿を造営し、八重事代主命と、石津連の祖神である天穂日命を合祀した。
この由緒により、似たような由緒を持つ、式内論社である堺区石津町の石津神社とともに、「日本最古の戎宮」と呼ばれる。
平安時代以後、朝廷の崇敬を受け、何度かの御幸の記録もある。かつては広大な社領を有していたが、元和年間(1615年-1624年)までに数度の兵火で社殿が焼失した。
豊臣秀吉が大坂城を築城した際、裏鬼門の鎮守神として崇敬し、木村重成は社殿復興のために黄金を寄進した。
江戸時代中期の明和5年(1768年)、神札頒布について係争していた西宮神社(西宮戎)と和解した。
全国に崇敬者があり、翌明和6年(1769年)には江戸湯島天神、坐摩神社で出開帳をした。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治41年(1908年)、浜寺村大字船尾の諏訪神社(建御名方富命)を合祀した。天照大神(靱大神宮)を配祀している。
江戸時代前期に造営された本殿が二殿あり、蛭子命・八重事代主命・天穂日命を祀る北殿は一間社流造、建御名方富命・天照大神を祀る南殿は一間社春日造。
江戸時代中期の宝暦年間(1751年-1764年)に造営された両殿に共有する割拝殿は入母屋造となっている。
境内末社に、磐山稲荷社・八幡神社・白蛇社がある。境内には、蛭子命が腰を掛けたと言われる大石が存在する。
鳥居の扁額は三条実美が参拝時に書いたとされている。鳥居の前には紀州街道が南北に走っている。
例祭は10月5日に近い土曜日。ふとん太鼓が出て、かつぎあいやパレードが行われる。1月には十日戎もある。
毎年12月14日には「泉州の奇祭」といわれる「やっさいもっさい/ヤッサイホッサイ祭り」という火祭が行われる。
これは往古、蛭子命が漂着した際、付近の住民が篝火を炊いて迎えたという古儀にちなむ。
願い事を書いた紙を貼った108束の御神木を参道に積んで神職が点火し、燃えて倒れた方角で吉凶を占う。
東に倒れることを「おかましや」といい豊穣に、西に倒れることを「はまましや」といい豊漁になるとされる。
次いで戎神に仮装した神人を3人の男衆が担ぎ、火渡りを3度繰り返し社地を3周する際に「やっさいほっさい」と掛声する。
戎神の火渡りが終わると参拝者たちが火渡りを行う。もみ消した灰や燃え殻は、歯痛などの痛み止めや厄除けになると信じられている。
なお、類似した名称の祭りとして、千葉県木更津市で行われる「やっさいもっさい」があるが、こちらは火渡り行事ではなく、踊りであるため無関係である。
【ご利益】
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