三島大神の后、入水した伊賀牟比売命を祀る、境内に式内二論社
后神社 東京都三宅村伊ヶ谷NO1
[住所]東京都三宅村伊ヶ谷
[電話]-

后神社(きさきじんじゃ)は、東京都三宅村伊ヶ谷にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「伊賀牟比売命神社(伊豆国・賀茂郡)」に比定される式内社(小社)の論社。

創祀年代は不詳。もとは伊豆村大崎宮、伊ヶ谷と伊豆の境界、倉澤橋の下あたりに鎮座していた。

室町時代の文明3年(1471年)、あるいは永正年間(1504年-1521年)、大船戸湾に伊ヶ谷村を創設した時に、現在地の后山に遷座した。「大崎の宮」と呼ばれた。

御祭神は、三島大明神事代主命)が三宅島においた三柱の后の一柱である伊賀牟比売命。他の2柱は、伊波乃比咩命・佐伎多麻比咩命で、いずれも式内社として祀られた。

伊賀牟比売命の名は、(伊)神聖な(賀牟)初めの(比売)姫だという。伊賀牟は、入海の訛りだとも。

伝承によると、この女神は、式根島泊に鎮座する泊神社の御祭神である泊御途口大后明神を妬み、幼少の王子を抱いて入水したという。他に下記の伝承がある。

伊賀牟比売命は2人の妹とともに、箱根の湖畔に翁とともに住んでいた。

ある日、翁が湖で釣りをしていた時、まったく魚が釣れず、湖の神に「魚が釣れたら3人の娘の誰でも嫁にしてよい」と言った。

すると、若い男が現れて、湖に入ると、多くの魚が船上に飛び込んできた。

後悔した翁が娘達に相談し、湖の神が嫁を請いに来た時、伊賀牟比売命は富士山の頂目指して妹達とともに鳩に化して飛び立った。

大蛇となった湖の神が娘達を追って富士山に迫った時、富士に坐していた三島大明神が、娘達を彼方に見える大島、新島、神津島へ逃がしたが、大蛇はさらに追って来た。

ついに三宅島まで追って来た時、三島大明神と御子神達によって、大蛇は退治された。これは、三宅島に蛇が棲めなくなった由来にもなっている。

三人の娘は、みな三島大明神の妻となったが、三島大明神が伊豆国へ出発する時、伊賀牟比売命の美貌を妬んだ、他の后神がそれを知らせなかった。

そのため、伊賀牟比売命は三島大明神の見送りができなかった。それを悲しんで、海に身を投じたという。

伊賀牟比売命には四柱の御子がいたが、幼少の王子は自ら抱いて入水、一人は島の丑寅(北東)の海中に入り、一人は辰巳(南東)の方の沖に入り、一人は三島大明神に付き従ったという。

伊賀牟比売命は、三島大明神が三宅島に置いた后の第一であるが、三島大明神の複数の后の第一で、神津島の阿波命神社の御祭神である阿波咩命と混同される場合がある。

境内社に、南子神社(南子命)と若宮神社(片菅命)がある。これらはいずれも式内論社で、「南子神社」と「片菅命神社」。

この南子神社は、南子宮とも呼ばれ、境内東寄りの小祠、あるいは本殿向かって右側に建っている石ともされるが、はっきりしない。

式内社「南子神社」の論社は他に、神着の御笏神社に合祀された三ノ朔幣神社、南子山に鎮座する南子神社がある。

若宮神社の御祭神である片菅命は、一般的に三島大明神の三宅島の三番目の后である佐伎多麻比咩命の八王子の七番目、「かたすけ」と考えられている。

ただし、当社の若宮は伊賀牟比売命が入水した時に亡くなった3人の王子のいずれか、あるいは全員ではないか、との指摘もある。

式内社「片菅命神社」の論社に、三宅島の丑寅(北東)の海の近くに鎮座している片菅神社がある。

また、御笏神社に合祀の勝祖神社、静岡県賀茂郡東伊豆町片瀬の片菅神社も論社とされる。

なお、『伊豆国式社考』では、静岡県三島市芝本町の浅間神社を式内社「伊賀牟比売命神社」に比定しているが、あまり有力視されてはいないようだ。

【ご利益】
水難除け、海上安全、子宝・安産
后神社 東京都三宅村伊ヶ谷NO2
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