三島大神の巡行の地、頼朝とその子の伝承、10月例祭に鹿島踊り
[住所]静岡県伊東市富戸686
[電話]0557-51-2114

三島神社(みしまじんじゃ)は、静岡県伊東市富戸にある神社。富戸三島神社とも。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「許志伎命神社(伊豆国・賀茂郡)」に比定される式内社(小社)の参考社。近代社格では村社。

創建年代は不詳だが、現存する最古の棟札に奈良時代の天平年間(729年-749年)の記録がある。御祭神は、積羽八重事代主命

三島大神(事代主命)が伊豆七島を開拓し、賀茂郡白浜村(現 河津町白浜)から田方郡三島町(現 静岡県三島市)へ巡幸の途中、当地の富戸が神徳に浴した。

そこで奉斎され、産土神として崇敬されたと伝わる。一時期、なぜか鹿島神社と呼ばれるようになり、今も鹿島踊りを伝えている。

『静岡縣神社誌』に、式内参考社の記載があるようだが、不詳。当社自身、式内の由緒は伝えていない。

式内とされてもおかしくない古い由緒を伝える、という意か。式内社「許志伎命神社」は通常、東京都八丈町の優婆夷宝明神社に比定される。

当社は源頼朝との関係が深い。平安時代の永暦元年(1160年)、伊豆に流された頼朝は、宇佐美の宿に潜在中、伊東祐親の三女八重姫と音無の森で人目を忍ぶ仲になった。

やがて八重姫は頼朝の男子を出産し、千鶴丸と名付けた。これを知った平家の官領である父祐親は、清盛に知られては一大事と八重姫から千鶴丸を奪った。

家来に命じて、伊東の八代田にある川の渕に、千鶴丸の体に石をつけて沈めた。後にこの渕は、稚児ヶ渕と呼ばれた。

さすがに気が咎めた家来は、近くの鎌田神社の境内にあった橘の枝を2本折って、千鶴丸の両手に握らせて、手向けとした。

やがて石がとれ、千鶴丸の遺体は川を下り、海へ出てこの富戸の宇根の海岸に着いた、という。

ここで漁をしていた富戸の住人甚之右衛門がこれを見つけ、身なりのすばらしさに高貴な家の赤子と思い、そばにあった岩に遺体を安置、葬った。

この岩が現在、産衣岩と呼ばれる。千鶴丸が握っていた橘の小枝は、この地に根付き、生育したという。昭和の世に、残念ながら枯死したという。

その後、村人達は千鶴丸を当社の相殿に若宮神社として祀った。頼朝は、建久元年(1190年)に右近上大将に任じられ、建久3年(1192年)には征夷大将軍となった。

千鶴丸のその後を知った頼朝は、甚之右衛門を呼び出し、恩賞の沙汰があった。その一つが生川(うぶかわ)の姓。現在、この「生川」は屋号として使われ、生川屋(なまかわや)として生き続けている。

また当社は、頼朝が当地に閉居していた時の祈願社十七社の一社だともいう。

現在の本殿は江戸時代後期の享和3年(1803年)の建造、二間社流造という珍しい形で、一つの棟に二社を別々に祀っている。

その棟札2枚が、市の有形文化財に指定されている。

例祭は10月29日。鹿島踊り・下方(シャギリ)・神楽・万灯の保存会が祭礼に関わる。

神楽舞が奉納され、力自慢の若者により万灯が奉納される。祭事が始まると同時に、鹿島踊りが奉納される。

鹿島踊りの終了後、ただしに神輿渡行に移る。神輿の担ぎ手は、鹿島踊りの舞人12名が務め、決して声を発しる事のないよう口紙を銜える。

境内には、参籠石(おこもりいし)がある。また、社殿裏手には「伊東の名木」に指定された御神木タブノキがある。

【ご利益】
家内安全、大漁満足・商売繁盛、諸願成就(公式HP
三島神社 静岡県伊東市富戸
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