伊豆半島最南端、伊豆七不思議「石廊崎権現の帆柱」、式内論社
[住所]静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎9
[電話]0558-62-0141

石室神社(いろうじんじゃ)は、静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

『延喜式神名帳』にある「伊波例命神社(伊豆国・賀茂郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では無格社。

伊豆半島の最南端に位置する石廊崎の突端付近に鎮座する。石廊権現(いろうごんげん)や石廊崎権現(いろうざきごんげん)とも。

「いしむろじんじゃ」と読まれることも多いが、正式なものではない。由来や創建時期には諸説ある。

説1:社伝によれば、奈良時代直前、文武天皇の大宝元年(701年)に初めて堂が建てられ、最初は観音像と第六天神を安置したが、その後、役小角が神託を受けて伊波例命を祀ったという。

説2:拝殿内に展示されている「石廊山金剛院縁起」によると、文武天皇3年から5年(699年-701年)、役小角が伊豆大島へ流された時、十一面施無畏の神力を得てこの地に至った、という。

文武天皇4年(700年)に大地震があった際にも、龍と白鳥が現れてこの地を守った。

村人の一人が夢の中で海中より宝殿が浮かび上がって岬の中腹の岩窟に座すのを見たため、行ってみると果たして宝殿が出現し、中に十一面観音が安置されていた。

その後、奈良時代の天平年代(729年-749年)、行基によって第六天神が祀られたという。

説3:秦の始皇帝の五世孫といわれる、日本に帰化した弓月君(ゆつきのきみ)が物忌奈之命と称されるようになり、その子孫の秦氏が祖神を祀った、とも。

どちらにしろ、創祀・創建以降、神仏習合の金剛山石室権現として人々の崇敬を集めた。『伊豆国神階帳』に「従四位下いわらいの明神」とある。

江戸時代には韮山代官所を通じて徳川幕府から米2表の寄進を受けた。伊豆七不思議のひとつで当社にまつわる「石廊崎権現の帆柱」の伝説が生まれたのもこの頃。
江戸へ塩を運ぶべく、航海中の播磨国の帆船が、シケで石廊崎沖で難破しそうになった際、「無事江戸に着ければ、帆柱を献上します」と、崖に見えた当社に神頼みした。

すると、嵐が静まり無事江戸に着けたという。その帰路、この場所を通りかかった船が、突然前に進まなくなった。

そこで、誓いを守り、献上すべく帆柱を切り落とすと、高さ30メートルの崖の上へと、自然に引き寄せられるかのように打ち上げられたという。
明治初期の神仏分離により、現社号を称するようになった。現在の社殿は海岸の岩窟上に立てられた帆柱の上に造営されているが、明治34年(1901年)に再建されたもの。

50メートルほど離れた岬の最突端には熊野神社(くまのじんじゃ)がある。独立した神社かもしれないが、当社と一体、あるいは境内社とされることが多い。その縁起も興味深い。
石廊崎近くの長津呂の郷に住むお静という名主の娘が、漁師の幸吉と恋に落ちたが、身分の違いで許さぬ恋であったため、幸吉は神子元島に流された。

幸吉を忘れられないお静は、毎夜石廊崎の先端で火を焚き、神子元島の幸吉と愛を確かめ合っていた。

ある晩、神子元島の火が見えないことを心配したお静は、たまらず小船を出して神子元島に向かったが、折りからの大風で波は高く船は進まず、お静は一心不乱に神に祈った。

その甲斐あって神子元島に漂着し、無事2人はめぐりあい結ばれた。その後2人を親たちも許すこととなり、末長く幸せに暮らしたという。
お静が火を焚いたところに熊野権現の祠が祀られ、以来縁結びの神として知られることとなった。

当社の境内には、創祀に関わったとされる役の行者の銅像がある。

毎年4月3日、漁業関係者を中心に「石廊権現祭」が開催される。神主による祭事の他、海上では漁船による勇壮なパレードも行われる。

景勝地として人気がある他、「石廊崎権現の帆柱」の伝説の通り、決して素通りできない、として、パワースポットとしても人気がある。

なお、式内社「伊波例命神社」の論社は他に、伊東市八幡野の八幡宮来宮神社がある。

【ご利益】
海上安全、大漁満足・商売繁盛、学業・受験合格
石室神社 静岡県賀茂郡南伊豆町石廊崎
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