『常陸風土記』だけに見える、完全な祟り神、旧久慈郡二ノ宮
[住所]茨城県常陸太田市里野宮町1052
[電話]0294-72-0987
薩都神社(さとじんじゃ)は、茨城県常陸太田市里野宮町にある神社。旧久慈郡二の宮とされる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「薩都神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
『常陸風土記』によれば、往古、兎上命が当地に兵を発して、(敵軍を?)殺戮しまくった。
よく殺したので「福(さち)なるかも」と言ったので、佐都(さつ)と命名され、薩都となった。
何とも血なまぐさい話だが、兎上命は、第8代孝元天皇の裔である葛城襲津彦命の四世孫、第21代雄略天皇の頃の人で、生江臣の祖。
『古事記』には、第9代開化天皇の四世孫で、第11代垂仁天皇の頃の人である菟上王が記載されている。
社伝によれば、奈良時代末期の延暦7年(788年)の創祀。御祭神は、立速日男命。『常陸風土記』にだけ見える神。
御祭神は松沢の松の木に降臨。崇りをなしたため、朝廷は片岡大連を派遣し、神に祈願した。
「この地は、人家に近く穢れがありますから、ここを避けて高い山の清浄な所にお移り下さい」
神はこの願いを聞き入れ、平安時代初期の延暦19年(800年)、賀毘礼の峰に移った。この際のものとされる石器が今に伝わる。
賀毘礼の社は、石の垣が作られ、その中には仕える一族が住んだ。また、宝物・ 弓・鉾・釜などがすべて石製。
およそこの地を飛び渡る鳥も、この地を避けて飛び、それは今も昔も変わらなかったという。完全な祟り神。
しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝が困難なため、間もなくの大同元年(806年)、現在地の近く、小中島に遷座した。
この造営の際、賀毘礼の山で木を伐ったところ、木心に虫喰のように「鹿島御造営の」と書いてあった。
おそらく鹿島の神の御子神がおられるのであろうと、左文字の片木を当社に保存し、文字を鹿島神宮に納めたと伝えられている。
貞観8年(866年)に正五位下に列し、貞観16年(874年)に従四位下に昇格している。
この2回とも、式内社である天白羽神・天速玉神とともに昇叙されている。
天速玉神は論社があるものの、そのうちの鹿島神社とすれば、この三神はいずれも里川近くに鎮座している。
常陸太田城主である藤原通延の子、通成は佐都宮に住し、その子通盛は小野崎の地に居城、佐都荘を治め、代々の祈願所と定め、一族はまた氏神と仰いだ。
南北朝時代の正平年間(1347年-1370年)、佐竹左近将監義信が修造したという。
戦国時代の永正年間(1504年-1521年)以降、里川沿岸の佐都郷旧33ヶ村の総鎮守として、広く信仰され、大永2年(1522年)に現在地に遷座した。
江戸時代になり、慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光は圭田50石を寄進。除地13石9斗4升3合。
明治6年(1873年)6月、郷社に列し、明治40年(1907年)4月10日、神饌幣帛料供進社に指定された。
他に文化財として、天国の作で、明治33年(1900年)、元秋田藩臣東京大学教授根本通明が奉納した神刀、明治4年(1971年)に徳川昭武が奉納した弓などが伝わる。
例祭は4月10日で、春季例大祭、旧暦6月9日には御田植祭があり、旧暦9月9日が秋季例祭。
なお、式内社「薩都神社」の論社は他に、日立市の御岩神社の中宮である当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
諸願成就

【関連記事】
・茨城県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、茨城県に鎮座している神社の一覧
[電話]0294-72-0987
薩都神社(さとじんじゃ)は、茨城県常陸太田市里野宮町にある神社。旧久慈郡二の宮とされる。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「薩都神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
『常陸風土記』によれば、往古、兎上命が当地に兵を発して、(敵軍を?)殺戮しまくった。
よく殺したので「福(さち)なるかも」と言ったので、佐都(さつ)と命名され、薩都となった。
何とも血なまぐさい話だが、兎上命は、第8代孝元天皇の裔である葛城襲津彦命の四世孫、第21代雄略天皇の頃の人で、生江臣の祖。
『古事記』には、第9代開化天皇の四世孫で、第11代垂仁天皇の頃の人である菟上王が記載されている。
社伝によれば、奈良時代末期の延暦7年(788年)の創祀。御祭神は、立速日男命。『常陸風土記』にだけ見える神。
御祭神は松沢の松の木に降臨。崇りをなしたため、朝廷は片岡大連を派遣し、神に祈願した。
「この地は、人家に近く穢れがありますから、ここを避けて高い山の清浄な所にお移り下さい」
神はこの願いを聞き入れ、平安時代初期の延暦19年(800年)、賀毘礼の峰に移った。この際のものとされる石器が今に伝わる。
賀毘礼の社は、石の垣が作られ、その中には仕える一族が住んだ。また、宝物・ 弓・鉾・釜などがすべて石製。
およそこの地を飛び渡る鳥も、この地を避けて飛び、それは今も昔も変わらなかったという。完全な祟り神。
しかし、賀毘礼の峰は険しく、参拝が困難なため、間もなくの大同元年(806年)、現在地の近く、小中島に遷座した。
この造営の際、賀毘礼の山で木を伐ったところ、木心に虫喰のように「鹿島御造営の」と書いてあった。
おそらく鹿島の神の御子神がおられるのであろうと、左文字の片木を当社に保存し、文字を鹿島神宮に納めたと伝えられている。
貞観8年(866年)に正五位下に列し、貞観16年(874年)に従四位下に昇格している。
この2回とも、式内社である天白羽神・天速玉神とともに昇叙されている。
天速玉神は論社があるものの、そのうちの鹿島神社とすれば、この三神はいずれも里川近くに鎮座している。
常陸太田城主である藤原通延の子、通成は佐都宮に住し、その子通盛は小野崎の地に居城、佐都荘を治め、代々の祈願所と定め、一族はまた氏神と仰いだ。
南北朝時代の正平年間(1347年-1370年)、佐竹左近将監義信が修造したという。
戦国時代の永正年間(1504年-1521年)以降、里川沿岸の佐都郷旧33ヶ村の総鎮守として、広く信仰され、大永2年(1522年)に現在地に遷座した。
江戸時代になり、慶安元年(1648年)、3代将軍徳川家光は圭田50石を寄進。除地13石9斗4升3合。
明治6年(1873年)6月、郷社に列し、明治40年(1907年)4月10日、神饌幣帛料供進社に指定された。
他に文化財として、天国の作で、明治33年(1900年)、元秋田藩臣東京大学教授根本通明が奉納した神刀、明治4年(1971年)に徳川昭武が奉納した弓などが伝わる。
例祭は4月10日で、春季例大祭、旧暦6月9日には御田植祭があり、旧暦9月9日が秋季例祭。
なお、式内社「薩都神社」の論社は他に、日立市の御岩神社の中宮である当社および式内同名神社がある。
【ご利益】
諸願成就

【関連記事】
・茨城県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、茨城県に鎮座している神社の一覧

コメント