崇神朝に当地に来訪して機を織る、頼義崇敬の四所明神
[住所]茨城県常陸太田市幡町539
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長幡部神社(ながはたべじんじゃ)は、茨城県常陸太田市幡町にある神社。現在は若宮八幡宮の兼務社で、御朱印も若宮八幡宮で頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「長幡部神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では郷社。

社名にある「長幡」とは絹織物の一種・絁(あしぎぬ)を指す言葉で、「長幡部」とはそれを織る技術者集団を表す。

文献上の長幡部氏には、皇別氏族と渡来系氏族が見られる。『新撰姓氏録』逸文の阿智王条では、長幡部の祖は帰化した「七姓漢人」のうち皀(こう)姓で、末裔に佐波多村主(さはたのすぐり)がいると記す。

また『古事記』第9代開化天皇段によれば、第三皇子の日子坐王の子である神大根王(かむおおねのきみ)が長幡部の祖として記載されている。

『常陸国風土記』久慈郡条には「長幡部の社」に関する記事が載る。

それによると、珠売美万命(すめみまのみこと)が天から降臨した際に綺日女命(かむはたひめのみこと)が従い、日向から美濃に至ったという。

そして、第10代崇神天皇の御世に長幡部の遠祖である多弖命(たてのみこと)が美濃から久慈に遷り、機殿を建てて初めて織ったと伝える。

当社の御祭神は、綺日女命と多弖命。武蔵国賀美郡の式内社で、埼玉県児玉郡上里町長浜の当社と同名の神社でも同じ神を祀る。

当社は幡山古墳群の中に位置しているが、この古墳群は当社の祭祀氏族のものと見られ、その出土品から当社ならびに祭祀氏族の性格が指摘される。

『常陸誌料郡郷考』によれば、神階は仁寿元年(851年)に正六位上、のち10度の贈位により、戦国時代の明応10年(1501年)に正三位に達したという。

常陸国と長幡部の関係に関しては、『延喜式』主計式には常陸国の調として「長幡部7疋」の記載がある。

また、『類聚国史』巻54で弘仁8年(817年)に「長幡部福良女」の名が見える。

もとは、現在地から北西約700メートルの地に位置した。現在も神輿が出る際は必ずここに安置するといい、御旅所になっている。

康平年間(1058年-1065年)に源頼義が奥羽出兵の際に戎旗1旗を奉納して戦勝祈願を行い、凱旋時に鹿島・三島・神明・若宮の「四所明神」を勧請したという。

この四所明神が盛大になって「長幡部神社」の社号を失い、さらにのちには「鹿島明神」と称するのみになったと伝える。

中世以降は「小幡足明神」のち「駒形神社」といった。江戸時代中期の延享年間(1744年-1748年)に至り、古老の口碑により旧号に復した。

当社は水戸藩からの崇敬も篤く、除地4石が許されていた。明治6年(1873年)、郷社に列した。

例祭は4月9日。秋季祭が旧暦9月29日に行われる。

境内社に、雷神社・鷺森神社・浅間神社・羽黒神社・熊野神社・愛宕神社・阿夫利神社・稲荷神社・天満天神宮・石尊神社・松尾神社などがある。

また、御神木として、「男松」「女松」がある。郷土資料館も併設されているが、通常は施錠されているようだ。

【ご利益】
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長幡部神社 茨城県常陸太田市幡町
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