八溝川と久慈川の合流点、二つの近津三社、中田植など古神事
[住所]茨城県久慈郡大子町下野宮1626
[電話]-
近津神社(ちかつじんじゃ)は、茨城県久慈郡大子町下野宮にある神社。八溝川と久慈川の合流点近くに鎮座する。正月や祭礼時などに参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「稲村神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀は第12代景行天皇の時代、日本武尊が東征の際に御祭神が出現し、八溝の強夷掃蕩に多大な加護があったため、一祠を建立して鎮斎したのが始まりという。
御祭神は面足尊・惶根尊・級長津彦命。奈良時代直前の慶雲4年(707年)に改めて社殿が造営され、霊鏡・霊剣・金鈴が奉納された。
平安時代初期の延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が八溝山の夷である岩竹丸征討にあたり参籠、祈願した。
康平年間(1058-1064)、源義家が戦勝祈願し、3000貫を寄進、この際に御神木に鉾を立て掛けたのが鉾杉で、また都々母杉を植えたとも伝わる。
その後、義家は寛治年間(1087-1094)にも再び参籠している。
室町時代の応永13年(1406年)4月3日、鎌倉公方である足利満兼が3000貫を寄進。文安2年(1445年)8月には佐竹義久により社殿が造営された。
戦国時代の永正7年(1510年)、当地である保内郷が陸奥国から常陸国へと変わった。
そのため、式内当時は陸奥国だったことから、式内社「稲村神社」としては否定の見解が多い。付近に「稲村」の地名があったため、近世・近代に誤解されたとも。
永禄10年(1567年)、佐竹昭為により社殿が造営され、天正4年(1576年)には佐竹義重・岩城政隆(伊達政隆)により社殿が造営された。
その後、水戸徳川氏の時代になり、江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)に上野宮・町付に御分霊勧請した。
当社とこの二社はいずれも八溝川流域に鎮座し、三社あわせて近津三社、あるいは稲村三社と呼ぶようになった。
この三社に、大鈴神社・植竹稲荷を加えた五社を一括りにする見方もあったようで、その中心的な存在が当社だったという。
毎年夏至の日に行われる田植祭「中田植」で知られる。夏至の日は二十四節気の中(ちゅう)に当たり、昔の田植え時期のほぼ半ばのため、この名称が定着した。
徳川光圀が寄進した神饌田に植える習わしだったという。現在は10名あまりの早乙女(さおとめ)が神田に苗を植え付ける。
他に、御筒粥祭は、追儺祭に続いて正月15日深夜に行われる。「かゆ」によってその年の豊作物の豊凶を占う。
また、旧暦11月7日が例祭で、七日まちが行われる。江戸期の市日の名残で、豊作のお礼祭り。
さらに、7年越しの御枡廻しという神事がある。種子の頒有が神意に基づいて行われる古い信仰を表しているという。
福島県東白川郡棚倉町八槻の八槻都都古和気神社にも種籾を「ツツコ」に入れて農民に分与するという、当社の御枡廻しと似たような神事があり、後述のように深いつながりがうかがえる。
式内社「稲村神社」の論社は他に、常陸太田市天神林町の稲村神社、桜川市の磯部稲村神社がある。
前者は創祀以来の天神で、当社同様、稲村の地名にちなむ比定であり、後者は久慈郡には属していないとされる。
一般的にも否定的見解が多いが、当社でも「稲村神社」は主張せず、むしろ陸奥国白河郡の式内社「石都都古和気神社」を主張している。
ただし、式内社「石都都古和気神社」は、一般的に福島県石川郡石川町下泉の石都々古和気神社に比定されている。
石都々古和気神社とともに、都々古別三社を構成する馬場と八槻の都都古別(和気)神社は、当社同様、久慈川沿いに鎮座する。
馬場が上宮、八槻が中宮、そして当社が下宮であり、この三社も近津三社と呼ばれる。下野宮の地名もここから生まれた可能性がある。
都々古別三社は宮城県塩竈市の鹽竈神社とともに陸奥国一宮を主張するため、近津三社という枠組みで考えれば、当社も陸奥国一宮の参考社とされる場合がある。
【ご利益】
五穀豊穣、商売繁盛、事業成功

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近津神社(ちかつじんじゃ)は、茨城県久慈郡大子町下野宮にある神社。八溝川と久慈川の合流点近くに鎮座する。正月や祭礼時などに参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「稲村神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
創祀は第12代景行天皇の時代、日本武尊が東征の際に御祭神が出現し、八溝の強夷掃蕩に多大な加護があったため、一祠を建立して鎮斎したのが始まりという。
御祭神は面足尊・惶根尊・級長津彦命。奈良時代直前の慶雲4年(707年)に改めて社殿が造営され、霊鏡・霊剣・金鈴が奉納された。
平安時代初期の延暦20年(801年)、坂上田村麻呂が八溝山の夷である岩竹丸征討にあたり参籠、祈願した。
康平年間(1058-1064)、源義家が戦勝祈願し、3000貫を寄進、この際に御神木に鉾を立て掛けたのが鉾杉で、また都々母杉を植えたとも伝わる。
その後、義家は寛治年間(1087-1094)にも再び参籠している。
室町時代の応永13年(1406年)4月3日、鎌倉公方である足利満兼が3000貫を寄進。文安2年(1445年)8月には佐竹義久により社殿が造営された。
戦国時代の永正7年(1510年)、当地である保内郷が陸奥国から常陸国へと変わった。
そのため、式内当時は陸奥国だったことから、式内社「稲村神社」としては否定の見解が多い。付近に「稲村」の地名があったため、近世・近代に誤解されたとも。
永禄10年(1567年)、佐竹昭為により社殿が造営され、天正4年(1576年)には佐竹義重・岩城政隆(伊達政隆)により社殿が造営された。
その後、水戸徳川氏の時代になり、江戸時代前期の寛文年間(1661年-1672年)に上野宮・町付に御分霊勧請した。
当社とこの二社はいずれも八溝川流域に鎮座し、三社あわせて近津三社、あるいは稲村三社と呼ぶようになった。
この三社に、大鈴神社・植竹稲荷を加えた五社を一括りにする見方もあったようで、その中心的な存在が当社だったという。
毎年夏至の日に行われる田植祭「中田植」で知られる。夏至の日は二十四節気の中(ちゅう)に当たり、昔の田植え時期のほぼ半ばのため、この名称が定着した。
徳川光圀が寄進した神饌田に植える習わしだったという。現在は10名あまりの早乙女(さおとめ)が神田に苗を植え付ける。
他に、御筒粥祭は、追儺祭に続いて正月15日深夜に行われる。「かゆ」によってその年の豊作物の豊凶を占う。
また、旧暦11月7日が例祭で、七日まちが行われる。江戸期の市日の名残で、豊作のお礼祭り。
さらに、7年越しの御枡廻しという神事がある。種子の頒有が神意に基づいて行われる古い信仰を表しているという。
福島県東白川郡棚倉町八槻の八槻都都古和気神社にも種籾を「ツツコ」に入れて農民に分与するという、当社の御枡廻しと似たような神事があり、後述のように深いつながりがうかがえる。
式内社「稲村神社」の論社は他に、常陸太田市天神林町の稲村神社、桜川市の磯部稲村神社がある。
前者は創祀以来の天神で、当社同様、稲村の地名にちなむ比定であり、後者は久慈郡には属していないとされる。
一般的にも否定的見解が多いが、当社でも「稲村神社」は主張せず、むしろ陸奥国白河郡の式内社「石都都古和気神社」を主張している。
ただし、式内社「石都都古和気神社」は、一般的に福島県石川郡石川町下泉の石都々古和気神社に比定されている。
石都々古和気神社とともに、都々古別三社を構成する馬場と八槻の都都古別(和気)神社は、当社同様、久慈川沿いに鎮座する。
馬場が上宮、八槻が中宮、そして当社が下宮であり、この三社も近津三社と呼ばれる。下野宮の地名もここから生まれた可能性がある。
都々古別三社は宮城県塩竈市の鹽竈神社とともに陸奥国一宮を主張するため、近津三社という枠組みで考えれば、当社も陸奥国一宮の参考社とされる場合がある。
【ご利益】
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