日本武尊が「七代天神」を奉斎、物部系の久自国造、光圀の再興
[住所]茨城県常陸太田市天神林町3228
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稲村神社(いなむらじんじゃ)は、茨城県常陸太田市天神林町にある神社。現在は天志良波神社の兼務社であり、御朱印も天志良波神社で頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「稲村神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第12代景行天皇の時代、日本武尊が東征の際、当地に天神七代の霊を祀った。または7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」と称したという。
また、鎮座地一帯は、律令制以前の久自国造の本拠地であったいう。
『先代旧事本紀』国造本紀によれば、第13代成務天皇の御代、物部連遠祖である伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼命が初代久自国造に任命された。
社伝によれば、この任命の際に船瀬足尼命が始祖の饒速日命を祀ったという。その時に「天神」と呼ばれるようになったとも。
当社の南西には梵天山古墳群があるが、その主墳の梵天山古墳は茨城県第2位の規模で、これを船瀬足尼命の墓とする伝承がある。
古くより天神と呼ばれ、「稲村神社」と呼ばれていたわけではなかったという。鎮座地の天神林の隣りに、稲木という町があり、比定根拠になった。
式内社「稲村神社」は『続日本後紀』嘉祥2年(849年)に稲村神が官社に預かり、水旱に霊験を表したとある。
現在、境内社に雷神社がある。これは雨乞いの神で、往時は石祠を神輿に乗せて渡御したと伝わる。
稲村神は、『日本三大実録』元慶2年(878年)に従五位下、仁和元年(885年)に従五位上に進んだ。
平安時代後期の天承元年(1131年)、源新羅三郎義光の孫である昌義が当地に土着、長承2年(1133年)、馬坂に館を築き、郷名をとり佐竹氏と称した。
昌義は鎌倉から八幡社を勧請したため、当社に対する信仰は衰えたという。
『新編常陸国誌』によれば、江戸時代前期の元禄4年(1691年)、徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。
昌義以来の八幡宮を取り潰し、これらを一社に統合するよう諭し、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという。
また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した。江戸時代には社領として6石5斗あまり、除地として9石9斗3升を有した。
明治に入って式内社に比定され、七代天神宮から現社名に改め、郷社に列した。明治40年(1907年)、神饌幣帛料供進社に指定された。
日本武尊が奉斎した国常立命・国狹槌尊・豊斟渟尊・埿土煮尊・沙土煮尊・大戸之道尊・大苫邊尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉册尊の神世七代が配祀されている。
現在、光圀の時に取り潰された八幡が境内社として復活している。また、境内には先の雷神社とは別に、境内社がずらりと並ぶ。
式内社「稲村神社」の論社は他に、大子町の近津神社、桜川市の磯部稲村神社がある。前者は陸奥国に属し、後者は久慈郡ではないと見られる。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、諸願成就

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稲村神社(いなむらじんじゃ)は、茨城県常陸太田市天神林町にある神社。現在は天志良波神社の兼務社であり、御朱印も天志良波神社で頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 常陸国 久慈郡「稲村神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
第12代景行天皇の時代、日本武尊が東征の際、当地に天神七代の霊を祀った。または7面の神鏡が祀られていたので「七代天神」と称したという。
また、鎮座地一帯は、律令制以前の久自国造の本拠地であったいう。
『先代旧事本紀』国造本紀によれば、第13代成務天皇の御代、物部連遠祖である伊香色雄命の三世孫の船瀬足尼命が初代久自国造に任命された。
社伝によれば、この任命の際に船瀬足尼命が始祖の饒速日命を祀ったという。その時に「天神」と呼ばれるようになったとも。
当社の南西には梵天山古墳群があるが、その主墳の梵天山古墳は茨城県第2位の規模で、これを船瀬足尼命の墓とする伝承がある。
古くより天神と呼ばれ、「稲村神社」と呼ばれていたわけではなかったという。鎮座地の天神林の隣りに、稲木という町があり、比定根拠になった。
式内社「稲村神社」は『続日本後紀』嘉祥2年(849年)に稲村神が官社に預かり、水旱に霊験を表したとある。
現在、境内社に雷神社がある。これは雨乞いの神で、往時は石祠を神輿に乗せて渡御したと伝わる。
稲村神は、『日本三大実録』元慶2年(878年)に従五位下、仁和元年(885年)に従五位上に進んだ。
平安時代後期の天承元年(1131年)、源新羅三郎義光の孫である昌義が当地に土着、長承2年(1133年)、馬坂に館を築き、郷名をとり佐竹氏と称した。
昌義は鎌倉から八幡社を勧請したため、当社に対する信仰は衰えたという。
『新編常陸国誌』によれば、江戸時代前期の元禄4年(1691年)、徳川光圀が天神林村を通った際、天神七社の所在を質し、当時「七代天神」と称していた7塚を巡見した。
昌義以来の八幡宮を取り潰し、これらを一社に統合するよう諭し、元禄6年(1693年)に現在地に社殿を造営して合祀したという。
また、光圀は鳥居に「七代天神宮」の扁額をかけさせ、神器を奉納した。江戸時代には社領として6石5斗あまり、除地として9石9斗3升を有した。
明治に入って式内社に比定され、七代天神宮から現社名に改め、郷社に列した。明治40年(1907年)、神饌幣帛料供進社に指定された。
日本武尊が奉斎した国常立命・国狹槌尊・豊斟渟尊・埿土煮尊・沙土煮尊・大戸之道尊・大苫邊尊・面足尊・惶根尊・伊弉諾尊・伊弉册尊の神世七代が配祀されている。
現在、光圀の時に取り潰された八幡が境内社として復活している。また、境内には先の雷神社とは別に、境内社がずらりと並ぶ。
式内社「稲村神社」の論社は他に、大子町の近津神社、桜川市の磯部稲村神社がある。前者は陸奥国に属し、後者は久慈郡ではないと見られる。
【ご利益】
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