甲府盆地の湖水伝承、穴を拓いて水を落とした神、重文の本殿
[住所]山梨県甲府市宝2-8-5
[電話]055-222-3852
穴切大神社(あなぎりだいじんじゃ)は、山梨県甲府市宝にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 甲斐国 山梨郡「黒戸奈神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
『甲斐国社記・寺記』によれば、奈良時代の和銅年間(708年-715年)、当時の甲斐国司が湖だった現在の甲府盆地を平地化することを発起。
朝廷に奏上するとともに、国造りの神である大国主神(大己貴命)に祈願し、盆地南部の鰍沢口(富士川町)を開削し、富士川へ水を落とした。
工事の竣工に際して、大己貴命を勧請したのが創祀であるといい、開拓を主導した甲斐国司も富士川の流域である河内地方において蹴裂明神として祀られたという。
奈良時代まで湖だったとは少し信じられないが、甲府盆地がいずれかの時期まで湖水で、それが開拓されたという伝承は、各地に残り、当社のこの由緒もその一つ。
当初は黒戸奈神社と称したが、後に朝廷から「穴切大明神」の神号を賜ったため、これが現社号につながる。近世には、「黒戸奈神社正一位穴切大明神」とも。
『甲斐国志』では、盆地の湖水を落としたのは3柱の神で、最初の神が山の端を蹴破り、次の神は山に穴を開けて水を落とし、最後の神がその水を富士川へ導いて川瀬を造った、とする。
最初の神を蹴裂明神と、山を切って穴を開けた神を穴切明神と、最後の神を瀬立不動と称え、当社は2番目の神を祀るもので「穴切」の社名もこれに由来するともされる。
どちらにしろ、一帯は弥生・古墳時代から開拓された地域であることは間違いなく、当社付近からも縄文土器が出土している。
本殿背後にある高さ1メートルあまりの立石を、当社創祀に関連付ける見方もある。現在までに御祭神は、大己貴命・少彦名命・素盞鳴命。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)、徳川四奉行連署証文写に黒印社領5石7斗余とあり、この社領は江戸時代を通じて維持された。
甲府城を中心とした甲府城下町が成立すると、城の南西に位置する当地は当社に由来する「穴切」と呼ばれる郭外の武家地とされ、武家からの崇敬を受けた。
明治5年(1872年)5月、郷社に列した。例祭は4月19日、現在はその前後の土・日曜日。
本殿の建立年代は不詳だが、様式的に桃山時代の再興にかかるものと考えられている。比較的小規模な一間社流造で、旧国宝、現在は国の重要文化財である。
随神門は入母屋造平入、大胆な平面構成をとった三間一戸、2層の楼門で、寛政6年(1794年)に下山の大工である竹下源蔵を棟梁に建立された。市指定有形文化財。
拝殿は鉄筋コンクリート製の切妻造平入銅版葺。かつての拝殿は正徳5年(1715年)の建造だったが、韮崎市の藤武神社へ寄進されたという。
境内社に、神明社・塩釜社・道祖神社などがある他、稲荷大明神の石祠をはじめとする小祠が複数ある。
なお、式内社「黒戸奈神社」の論社は他に、山梨市牧丘町・甲府市黒平町の式内同名神社、甲府市平瀬町の細草神社がある。
【ご利益】
開運招福、事業成功、厄災除け

【関連記事】
・甲府盆地が太古は湖だった伝承を残す神社 - 盆地を取り囲むように鎮座、湖水伝説
・山梨県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、山梨県に鎮座している神社の一覧
[電話]055-222-3852
穴切大神社(あなぎりだいじんじゃ)は、山梨県甲府市宝にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 甲斐国 山梨郡「黒戸奈神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
『甲斐国社記・寺記』によれば、奈良時代の和銅年間(708年-715年)、当時の甲斐国司が湖だった現在の甲府盆地を平地化することを発起。
朝廷に奏上するとともに、国造りの神である大国主神(大己貴命)に祈願し、盆地南部の鰍沢口(富士川町)を開削し、富士川へ水を落とした。
工事の竣工に際して、大己貴命を勧請したのが創祀であるといい、開拓を主導した甲斐国司も富士川の流域である河内地方において蹴裂明神として祀られたという。
奈良時代まで湖だったとは少し信じられないが、甲府盆地がいずれかの時期まで湖水で、それが開拓されたという伝承は、各地に残り、当社のこの由緒もその一つ。
当初は黒戸奈神社と称したが、後に朝廷から「穴切大明神」の神号を賜ったため、これが現社号につながる。近世には、「黒戸奈神社正一位穴切大明神」とも。
『甲斐国志』では、盆地の湖水を落としたのは3柱の神で、最初の神が山の端を蹴破り、次の神は山に穴を開けて水を落とし、最後の神がその水を富士川へ導いて川瀬を造った、とする。
最初の神を蹴裂明神と、山を切って穴を開けた神を穴切明神と、最後の神を瀬立不動と称え、当社は2番目の神を祀るもので「穴切」の社名もこれに由来するともされる。
どちらにしろ、一帯は弥生・古墳時代から開拓された地域であることは間違いなく、当社付近からも縄文土器が出土している。
本殿背後にある高さ1メートルあまりの立石を、当社創祀に関連付ける見方もある。現在までに御祭神は、大己貴命・少彦名命・素盞鳴命。
江戸時代初期の慶長8年(1603年)、徳川四奉行連署証文写に黒印社領5石7斗余とあり、この社領は江戸時代を通じて維持された。
甲府城を中心とした甲府城下町が成立すると、城の南西に位置する当地は当社に由来する「穴切」と呼ばれる郭外の武家地とされ、武家からの崇敬を受けた。
明治5年(1872年)5月、郷社に列した。例祭は4月19日、現在はその前後の土・日曜日。
本殿の建立年代は不詳だが、様式的に桃山時代の再興にかかるものと考えられている。比較的小規模な一間社流造で、旧国宝、現在は国の重要文化財である。
随神門は入母屋造平入、大胆な平面構成をとった三間一戸、2層の楼門で、寛政6年(1794年)に下山の大工である竹下源蔵を棟梁に建立された。市指定有形文化財。
拝殿は鉄筋コンクリート製の切妻造平入銅版葺。かつての拝殿は正徳5年(1715年)の建造だったが、韮崎市の藤武神社へ寄進されたという。
境内社に、神明社・塩釜社・道祖神社などがある他、稲荷大明神の石祠をはじめとする小祠が複数ある。
なお、式内社「黒戸奈神社」の論社は他に、山梨市牧丘町・甲府市黒平町の式内同名神社、甲府市平瀬町の細草神社がある。
【ご利益】
開運招福、事業成功、厄災除け

【関連記事】
・甲府盆地が太古は湖だった伝承を残す神社 - 盆地を取り囲むように鎮座、湖水伝説
・山梨県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、山梨県に鎮座している神社の一覧

コメント