平安中期に牛頭天王として創建、高槻城の守護神、4月に泣き相撲
[住所]大阪府高槻市野見町6-6
[電話]072-675-1316

野見神社(のみじんじゃ)は、大阪府高槻市野見町にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 島上郡「野身神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。

社記によれば、平安時代中期の第59代宇多天皇(在位:887年-897年)の御宇、当地方に悪病が流行して多くの死者が出た。

その際、「社殿を造り、牛頭天王をお祀りすれば悪病が治まる」という神託があり、早速実行したところ、悪病はたちまち終息したという。

国人たちは大いに喜び、当地に社殿を造り、牛頭天王社として奉斎した。これが当社の起源となる。御祭神は須佐之男命

平安時代後期に高槻城が築城され、城内守護としても崇敬されるようになった。現在も北大手町旧高槻城内に鎮座する。

その後、戦国時代の享禄年間(1528年-1532年)、天文年間(1532年-1555年)には高槻城主駿入江駿河守、和田伊賀守などの崇敬を集め、社領の寄進などがあった。

しかし、キリシタン大名高山右近が神殿を破壊し、社領を没収、時の神職は御神体を石清水八幡宮に避難させたという。

江戸時代になり、元和5年(1619年)、城主となった松平紀伊守は、城内の安全を祈願して牛頭天王社を新造するとともに、社領を寄進した。

慶安2年(1649年)7月、永井直清が城主となって、社殿が修築され、社領が寄進されて、例祭日が10月14日に定められ、盛大に斎行されるようになった。

明治になり、野見宿禰命を合祀して現社号に改称、式内社として認められ、明治4年(1871年)、県社(府社?)に列した。

しかし、式内社「野身神社」であれば、もとから野見宿禰命を奉斎していなければおかしいとして、明治5年(1872年)11月に郷社に降格となった。

ただ、後に神饌幣帛料進社に指定されており、式内社かどうかはともかく、由緒ある神社であることは認められている。

なお、式内社「野身神社」の論社は他に、市内の上宮天満宮の境内摂社である式内同名神社がある。

例祭は10月体育の日。各氏子総代、来賓が参列し、氏子崇敬者をはじめ国民の安寧を祈願する。午後からは山車・御輿・稚児行列による御輿渡御が行われる。

毎年4月29日には、相撲の祖神である野見宿禰命にちなんで、泣き相撲が行われる。生後6ヶ月から2歳ぐらいまでの男女の子供で、3月ごろから受付を開始する。

境内の摂末社に、永井神社がある。初代高槻藩主永井直清を祀り、江戸時代中期の寛政5年(1793年)に9代藩主永井直進が創建した。

当初は「直清神社」と称し、幕末には「直清権現」と呼ばれた。嘉永元年(1848年)に11代藩主永井直輝が建立した社殿・四脚門の唐門が市指定有形文化財。

また、小島神社、福神社・稲荷神社・磐神社・祖霊社の合殿である四社明神、護国神社がある。

さらに、高槻えびす神社があり、1月10日を中心とした前後3日間には高槻えびす祭という十日戎が開かれる。

【ご利益】
厄災除け、病魔退散、身体壮健(公式HP
野見神社 大阪府高槻市野見町
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野見神社 大阪府高槻市野見町の御朱印