反正天皇ゆかり、後に多治比真人の本貫、明治期に櫟本神社を合祀
[住所]大阪府堺市美原区多治井157-1
[電話]072-361-0616
丹比神社(たんぴじんじゃ)は、大阪府堺市美原区多治井にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 丹比郡「丹比神社」に比定される式内社(小社、鍬靫)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。『新撰姓氏録』には「丹比連は火明命の後なり」とある。当社の主祭神は火明命。
当社では、火明命は瓊瓊杵尊と木花開耶姫命の子とし、生まれた際に「吾れ天神の子なり、其の名を火明命といふ 火の難に當へども少しも損ふ所なし」と言ったという。
木花開耶姫の火中出産との連想かもしれないが、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、火照命・火須勢理命・火遠理命であり、火明命は瓊瓊杵尊の兄にあたる、が正解か。
そのため、火明命の父母は瓊瓊杵尊と同様、天之忍穂耳命と萬幡豊秋津師比売命になる。
当社地付近は第18代反正天皇の河内丹比宮の伝承地であり、境内には今も反正天皇産湯の井戸があって、当社御祭神の1柱として奉斎されている。
河内丹比宮に関しては、松原市上田に柴籬神社がある。
反正天皇の本名、多遅比瑞歯別命は、『古事記』にも記された、歯並びのたいそうきれいな、美男子・長身の天皇だった。
当社にあるこの井戸は、多遅(タチ=いたどり)の花がたくさん咲いていたところから、多遅比という別名ができ、現在は多治井となった。当社も時に、多遅比神社と呼ばれた。
反正天皇の御名代の制による丹比部として設置された地域を統括した丹比連が、その祖神を祀ったのが当社の創建とされる。
後にそこへ、第28代宣化天皇の流れをくむ丹比公(多治比真人)の支配地に変わったため、その一族の祖神も加えられた、とされる。
当社公式では、合祀神を大山祇命・伊邪那岐命・伊邪那美命・凡河内倭女姫命・菅原道真公としているが、他に宣化天皇・上殖葉皇子・十市王子・多治比古王・多治比真人を祀るとも。
なお、凡河内倭女姫命については不詳だが、宣化天皇の妃に大河内稚子媛がいる。2人の子に椎田君(志比陀君)の祖とされる火穂王、恵波王がいる。
あまり関係ないかもしれないが、当社公式でも宣化帝に近い御祭神が加えられており、また、当社主祭神である火明命と名の近い身内がいる、ということになる。
なお、上記の上殖葉皇子は通常は宣化帝の皇后との第四子とされるが、『古事記』にも多治比君の祖とある恵波王と同一人物と考えられる。
平安時代、当社は承和14年(847年)12月には従五位下に叙され、『日本文徳天皇実録』によれば、嘉鮮3年(850年)10月には、従五位上に進んだ。
『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月27日には正五位下、同年7月14日には奉幣使が遣わされたという。
それ以降については詳細は不明。南北朝時代の争乱や戦国時代の畠山抗争のあおりで衰微したと伝えられる。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治40年(1907年)11月23日には式内社である村社櫟本神社(いちひもとじんじゃ/いちいもとじんじゃ)を合祀し、現在は当社の境内摂社となっている。
櫟本神社は創建の時、この地に大きい櫟の木があり、瑞歯別皇子とも呼ばれた反正天皇がこの大木を賞して、丹比の櫟本と名付けたのに由来するという。
御祭神には諸説あるが、木霊とか、反正天皇、あるいは近世には八幡と呼ばれたことから応神天皇、葛木直の祖神としての天押立命や賀茂県主の祖など。
当社の本殿北側には、五輪塔がある。父の第16代仁徳天皇が崩御した際、反正天皇が建立したと伝わる。事実、仁徳天皇陵のある西側を向いている。
昔、この石を持ち帰り、漬物石に使用したことがあり、その際、夜になると石が泣いたという。以来、石はもとに戻され、子供の夜泣き封じにご利益があるとされるようになった。
また、本殿裏には樹齢1000年を超える御神木の楠(クスノキ)がある。
また、境内北側入口には、2本の楠が寄り添い立ち、上のほうで結ばれているように見える木もある。そのため、縁結びの木として親しまれている。
例祭は10月10日。近辺の土・日曜日などに2台のだんじりや子ども御輿が出る。春季大祭が3月25日、夏季大祭が7月25日。
【ご利益】
健康長寿、一族・子孫繁栄、縁結び、病気平癒(公式HP)

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[電話]072-361-0616
丹比神社(たんぴじんじゃ)は、大阪府堺市美原区多治井にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 丹比郡「丹比神社」に比定される式内社(小社、鍬靫)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。『新撰姓氏録』には「丹比連は火明命の後なり」とある。当社の主祭神は火明命。
当社では、火明命は瓊瓊杵尊と木花開耶姫命の子とし、生まれた際に「吾れ天神の子なり、其の名を火明命といふ 火の難に當へども少しも損ふ所なし」と言ったという。
木花開耶姫の火中出産との連想かもしれないが、瓊瓊杵尊と木花開耶姫の子は、火照命・火須勢理命・火遠理命であり、火明命は瓊瓊杵尊の兄にあたる、が正解か。
そのため、火明命の父母は瓊瓊杵尊と同様、天之忍穂耳命と萬幡豊秋津師比売命になる。
当社地付近は第18代反正天皇の河内丹比宮の伝承地であり、境内には今も反正天皇産湯の井戸があって、当社御祭神の1柱として奉斎されている。
河内丹比宮に関しては、松原市上田に柴籬神社がある。
反正天皇の本名、多遅比瑞歯別命は、『古事記』にも記された、歯並びのたいそうきれいな、美男子・長身の天皇だった。
当社にあるこの井戸は、多遅(タチ=いたどり)の花がたくさん咲いていたところから、多遅比という別名ができ、現在は多治井となった。当社も時に、多遅比神社と呼ばれた。
反正天皇の御名代の制による丹比部として設置された地域を統括した丹比連が、その祖神を祀ったのが当社の創建とされる。
後にそこへ、第28代宣化天皇の流れをくむ丹比公(多治比真人)の支配地に変わったため、その一族の祖神も加えられた、とされる。
当社公式では、合祀神を大山祇命・伊邪那岐命・伊邪那美命・凡河内倭女姫命・菅原道真公としているが、他に宣化天皇・上殖葉皇子・十市王子・多治比古王・多治比真人を祀るとも。
なお、凡河内倭女姫命については不詳だが、宣化天皇の妃に大河内稚子媛がいる。2人の子に椎田君(志比陀君)の祖とされる火穂王、恵波王がいる。
あまり関係ないかもしれないが、当社公式でも宣化帝に近い御祭神が加えられており、また、当社主祭神である火明命と名の近い身内がいる、ということになる。
なお、上記の上殖葉皇子は通常は宣化帝の皇后との第四子とされるが、『古事記』にも多治比君の祖とある恵波王と同一人物と考えられる。
平安時代、当社は承和14年(847年)12月には従五位下に叙され、『日本文徳天皇実録』によれば、嘉鮮3年(850年)10月には、従五位上に進んだ。
『日本三代実録』によれば、貞観元年(859年)正月27日には正五位下、同年7月14日には奉幣使が遣わされたという。
それ以降については詳細は不明。南北朝時代の争乱や戦国時代の畠山抗争のあおりで衰微したと伝えられる。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治40年(1907年)11月23日には式内社である村社櫟本神社(いちひもとじんじゃ/いちいもとじんじゃ)を合祀し、現在は当社の境内摂社となっている。
櫟本神社は創建の時、この地に大きい櫟の木があり、瑞歯別皇子とも呼ばれた反正天皇がこの大木を賞して、丹比の櫟本と名付けたのに由来するという。
御祭神には諸説あるが、木霊とか、反正天皇、あるいは近世には八幡と呼ばれたことから応神天皇、葛木直の祖神としての天押立命や賀茂県主の祖など。
当社の本殿北側には、五輪塔がある。父の第16代仁徳天皇が崩御した際、反正天皇が建立したと伝わる。事実、仁徳天皇陵のある西側を向いている。
昔、この石を持ち帰り、漬物石に使用したことがあり、その際、夜になると石が泣いたという。以来、石はもとに戻され、子供の夜泣き封じにご利益があるとされるようになった。
また、本殿裏には樹齢1000年を超える御神木の楠(クスノキ)がある。
また、境内北側入口には、2本の楠が寄り添い立ち、上のほうで結ばれているように見える木もある。そのため、縁結びの木として親しまれている。
例祭は10月10日。近辺の土・日曜日などに2台のだんじりや子ども御輿が出る。春季大祭が3月25日、夏季大祭が7月25日。
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健康長寿、一族・子孫繁栄、縁結び、病気平癒(公式HP)

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