曽禰、つまり物部の住道神か、勝手明神、金岡神社に合祀も復社
[住所]大阪府堺市北区蔵前町3-10
[電話]-
須牟地曽根神社(すむちそねじんじゃ)は、大阪府堺市北区蔵前町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 住吉郡「須牟地曽祢神社」に比定される式内社(小社)の論社。
社伝によれば、創建は神功皇后6年だという。『住吉大社神代記』には住吉大神の子神の一つとして須牟地曾禰神の名が出てくる。
大阪市の南から堺市、和泉市に曽根の地名が分布する。当社の南に長曽根があり長曽根神社が鎮座、また泉大津市には池上曽根遺跡に隣接して曽禰神社が鎮座している。
『新撰姓氏録』和泉国神別曽禰連には「神饒速日命六世孫伊香我色雄命後也」とあり、物部の勢力圏だったようで、当社もその関係から見られる場合がある。
鳥越憲三郎は、『先代旧事本紀』天神本紀に饒速日尊に供奉したことがみえる「住跡物部」について「住道物部」の誤記とする。
中臣須牟地神社『叢社記』によれば、「須牟地曽祢神社は当社の北に鎮座、住吉の第二之社と呼ばれた」とある。
この場合の須牟地曽祢神社は湯里住吉神社を指すことになる。ただ、湯里住吉神社が式内社「須牟地曽祢神社」の論社とされる場合は少ない。
以上、御祭神は一応、須牟地曽根命とされるが、饒速日命、伊香我色雄命などの異説も多い。
江戸時代からは勝手神社、勝手明神、勝手大明神とも呼ばれた。長尾街道、住吉の津という交通の要衝から派生したものとされる。
現在までに、勝手大明神・毘沙門天が合祀されている。明治28年(1895年)、本殿が焼失、明治41年(1908年)に金岡神社に合祀された。
しかしその後、氏子の願いで旧社地に勝手明神の名で御分霊を遷座。平成5年(1994年)に正遷宮が行われた。
【ご利益】
旅行・交通安全、一族・子孫繁栄
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・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
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須牟地曽根神社(すむちそねじんじゃ)は、大阪府堺市北区蔵前町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 住吉郡「須牟地曽祢神社」に比定される式内社(小社)の論社。
社伝によれば、創建は神功皇后6年だという。『住吉大社神代記』には住吉大神の子神の一つとして須牟地曾禰神の名が出てくる。
大阪市の南から堺市、和泉市に曽根の地名が分布する。当社の南に長曽根があり長曽根神社が鎮座、また泉大津市には池上曽根遺跡に隣接して曽禰神社が鎮座している。
『新撰姓氏録』和泉国神別曽禰連には「神饒速日命六世孫伊香我色雄命後也」とあり、物部の勢力圏だったようで、当社もその関係から見られる場合がある。
鳥越憲三郎は、『先代旧事本紀』天神本紀に饒速日尊に供奉したことがみえる「住跡物部」について「住道物部」の誤記とする。
中臣須牟地神社『叢社記』によれば、「須牟地曽祢神社は当社の北に鎮座、住吉の第二之社と呼ばれた」とある。
この場合の須牟地曽祢神社は湯里住吉神社を指すことになる。ただ、湯里住吉神社が式内社「須牟地曽祢神社」の論社とされる場合は少ない。
以上、御祭神は一応、須牟地曽根命とされるが、饒速日命、伊香我色雄命などの異説も多い。
江戸時代からは勝手神社、勝手明神、勝手大明神とも呼ばれた。長尾街道、住吉の津という交通の要衝から派生したものとされる。
現在までに、勝手大明神・毘沙門天が合祀されている。明治28年(1895年)、本殿が焼失、明治41年(1908年)に金岡神社に合祀された。
しかしその後、氏子の願いで旧社地に勝手明神の名で御分霊を遷座。平成5年(1994年)に正遷宮が行われた。
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