中臣氏の祖が居住、藤原不比等が祖神を奉斎、住道社の中核か
[住所]大阪府大阪市東住吉区住道矢田2-9-20
[電話]06-6702-6835

中臣須牟地神社(なかとみすむちじんじゃ )は、大阪府大阪市東住吉区住道矢田にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 住吉郡「中臣須牟地神社」に比定される式内社(大社、月次新嘗)。近代社格では村社。

創祀年代は不詳。中臣氏の祖先である天種子命一族が当地に居住し、後に藤原不比等が祖神を併せ祀ったとされる。後に河内国丹比郡に編入された。

御祭神は中臣須牟地神。神須牟地神・須牟地曽祢神・住吉大神を配祀するという。昭和の資料によれば、住吉大神は住吉三神表筒男命中筒男命底筒男命と、息長帯比売命

当社を含めて須牟地社、つまり住道社は遷座を繰り返している。現在の矢田北小学校のある場所が、当社旧地との説もある。

当社の拝殿にある奉納された木額『叢社記』によれば、須牟地社の中で式内は、当社、神須牟地神社、須牟地曽根神社の三社。

『叢社記』には、神須牟地神社は当社の西の天神山にあり、少彦名神を祀る、とあり、須牟地曽祢神社は当社の北に鎮座、住吉の第二之社と呼ばれた、とある。

住吉の第二之社とは中筒男神を祀る神社のことで、須牟地神社と呼ばれていた湯里住吉神社を指すとされる。

ただ、湯里住吉神社を式内社「須牟地曽祢神社」の論社とする説は少ない。論社に、金岡神社須牟地曽根神社がある。

ともかく、御祭神の顔ぶれ、『叢社記』の記述を見れば、当社が須牟地・住道社の中核となっていることが分かる。

『日本書紀』第21代雄略天皇14年3月に「呉国の使いが住吉の津に泊まり、この月に呉の来朝者のため道を造って、磯果の道に通じさせた。これを呉坂と名づけた」とある。

磯果、磯歯津、四極は『万葉集』にも巻3 272に高市連黒人覊旅歌八首の一津として掲載されている。
四極山 うち越え見れば 笠縫の 島漕ぎ隠る 棚なし小舟
『延喜式』巻11「玄蕃寮」にある、新羅客の入朝の際、振る舞われた神酒を醸造したという住道社を当社に比定する見解もある。

『忌部記文』に「須牟地の神酒を賜うて穢を祓はない者は日本人ではない」とあり、大陸からの渡来人が日本人になるための儀式でもあったようだ。

なお、『延喜式』玄蕃寮に記載される住道社は、神須牟地神社に比定される場合もある。また、『延喜式』八十嶋神祭(八十島祭)には、住道神二座の記載がある。

社名と由緒からは、中臣酒屋連も連想させる。中臣酒屋連と関連する式内社に、「酒屋神社」が当初南東2.5キロほどの所にあったが、現在は屯倉神社の境内社になっている。

山城国綴喜郡の式内社にも「酒屋神社」があり、やはり中臣酒屋連との関連が指摘されている。

明治5年(1872年)、村社に列した。例祭は10月12日で、秋祭り。境内社に、龍姫社(竜姫)、中臣酒屋神などがある。

【ご利益】
旅行・交通安全、酒造、帰化
中臣須牟地神社 大阪府大阪市東住吉区住道矢田
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