上賀茂社「競馬の式」荘園20ヶ所の一つ、式内論社熊毛神を合祀
[住所]山口県柳井市伊保庄近長下487
[電話]0820-27-0096
賀茂神社(かもじんじゃ)は、山口県柳井市伊保庄近長下にある神社。伊保庄賀茂神社とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 周防国 熊毛郡「熊毛神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
今の伊保庄、相浦を除く阿月、平生町の秋森、小郡の氏神。伊保庄近長と阿月の相浦に鎮座する。もとは伊保庄が京都賀茂別雷神社の荘園だったために奉斎された。
伊保庄が賀茂社の荘園として確認されるのは、平安時代の寛治7年(1093年)、宮中武徳殿の行事である「競馬の式」を賀茂社において移し行なわれたこと。
そこで、堀河天皇は諸国の荘園20ヶ荘を寄進した。伊保庄はその一つであり、上賀茂神社からの勧請もこの際か、それ以降のことと考えられる。
これは『延喜式神名帳』よりも後の話のため、当社そのものが式内社の可能性はないことになる。
しかし、その後、熊毛神である三毛入野命が合祀され、現在までに三毛入野命・別雷命・玉依姫命を御祭神とする。
この熊毛神が式内論社となる。創立2000年を経て荒廃したために当社が合祀したという。他の論社に、周南市呼坂の熊毛神社、周南市樋口の大歳神社、岩国市周東町の岩隈八幡宮がある。
当社の熊毛神である三毛入野命は、弟にあたる初代神武天皇の東遷に参加し、大暴風に遭い身を犠牲にして全軍の安秦を図ったと伝わる。
『古事記』において、三毛入野命は神武東遷には加わらず、参加したのは長兄の五瀬命であり、大阪において負傷、その後嵩じたとある。
なお、御祭神については、三毛入野命・日本磐余彦命・姫鞴五十鈴姫命の三座という説もある。しかし、社家の古記録ではいずれも先述の三座となっている。
ちなみに、伊保庄(いほのしょう)は、地元では「うおのしょう」「よのしょう」と呼ばれることが多いという。
本来は三足の赤鳥に源を発し、鳥の王である「烏王の庄(うおうのしょう)」と書かれたともされる。
戦国時代の明応9年(1500年)、室町10代将軍足利義植が下向の途中、柳井津に滞溜した際、同行の三条左大臣公頼、近衛中将二条良豊、持明院中納言基規が当社に参詣した。
明治6年(1873年)、郷社に列した。
社殿は、現在の拝殿が江戸時代後期の天保12年(1842年)における再建、本殿は明治32年(1899年)の造営となるもの。
その造作彫刻は名工と謳われた大島郡の門井宗吉が主宰したもので、その荘重典雅な姿はよく環境に調和し、識者の三嘆を惜しまぬ近世の名作とされる。
境内入口の石鳥居は、県内で2番目に古い石鳥居で、寛永14年(1637年)、薩摩の石工である住木賀兵衛尉による作。現在は県の有形文化財に指定されている。ちなみに、最古のものは防府天満宮のもの。
社殿の奥に約1万2000平米の社叢が広がる。巨木・大木が多く、種類も多い。「伊保庄賀茂神社の社叢」として、市の天然記念物に指定されている。
例祭は10月9日で、秋季例大祭。境内社に、貴船八幡宮がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、安産・子育て、交通安全
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[電話]0820-27-0096
賀茂神社(かもじんじゃ)は、山口県柳井市伊保庄近長下にある神社。伊保庄賀茂神社とも。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 周防国 熊毛郡「熊毛神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では郷社。
今の伊保庄、相浦を除く阿月、平生町の秋森、小郡の氏神。伊保庄近長と阿月の相浦に鎮座する。もとは伊保庄が京都賀茂別雷神社の荘園だったために奉斎された。
伊保庄が賀茂社の荘園として確認されるのは、平安時代の寛治7年(1093年)、宮中武徳殿の行事である「競馬の式」を賀茂社において移し行なわれたこと。
そこで、堀河天皇は諸国の荘園20ヶ荘を寄進した。伊保庄はその一つであり、上賀茂神社からの勧請もこの際か、それ以降のことと考えられる。
これは『延喜式神名帳』よりも後の話のため、当社そのものが式内社の可能性はないことになる。
しかし、その後、熊毛神である三毛入野命が合祀され、現在までに三毛入野命・別雷命・玉依姫命を御祭神とする。
この熊毛神が式内論社となる。創立2000年を経て荒廃したために当社が合祀したという。他の論社に、周南市呼坂の熊毛神社、周南市樋口の大歳神社、岩国市周東町の岩隈八幡宮がある。
当社の熊毛神である三毛入野命は、弟にあたる初代神武天皇の東遷に参加し、大暴風に遭い身を犠牲にして全軍の安秦を図ったと伝わる。
『古事記』において、三毛入野命は神武東遷には加わらず、参加したのは長兄の五瀬命であり、大阪において負傷、その後嵩じたとある。
なお、御祭神については、三毛入野命・日本磐余彦命・姫鞴五十鈴姫命の三座という説もある。しかし、社家の古記録ではいずれも先述の三座となっている。
ちなみに、伊保庄(いほのしょう)は、地元では「うおのしょう」「よのしょう」と呼ばれることが多いという。
本来は三足の赤鳥に源を発し、鳥の王である「烏王の庄(うおうのしょう)」と書かれたともされる。
戦国時代の明応9年(1500年)、室町10代将軍足利義植が下向の途中、柳井津に滞溜した際、同行の三条左大臣公頼、近衛中将二条良豊、持明院中納言基規が当社に参詣した。
明治6年(1873年)、郷社に列した。
社殿は、現在の拝殿が江戸時代後期の天保12年(1842年)における再建、本殿は明治32年(1899年)の造営となるもの。
その造作彫刻は名工と謳われた大島郡の門井宗吉が主宰したもので、その荘重典雅な姿はよく環境に調和し、識者の三嘆を惜しまぬ近世の名作とされる。
境内入口の石鳥居は、県内で2番目に古い石鳥居で、寛永14年(1637年)、薩摩の石工である住木賀兵衛尉による作。現在は県の有形文化財に指定されている。ちなみに、最古のものは防府天満宮のもの。
社殿の奥に約1万2000平米の社叢が広がる。巨木・大木が多く、種類も多い。「伊保庄賀茂神社の社叢」として、市の天然記念物に指定されている。
例祭は10月9日で、秋季例大祭。境内社に、貴船八幡宮がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、安産・子育て、交通安全
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