高土之宮、神戸神社に合祀されるが社殿残り復社した式内社
[住所]三重県伊賀市比土658
[電話]-
比地神社(ひじじんじゃ)は、三重県伊賀市比土にある神社。高土之宮(たかつちのみや)、あるいは高土之宮比地神社とも。現在は神戸神社の飛地境内社である。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 伊賀国 伊賀郡「比地神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
伊賀神戸駅の東500メートルほど、伊賀神戸駅で合流する、近鉄伊賀線と近鉄大阪線の間にある、来迎寺脇の道を登った小山に鎮座する。
創建年代は不詳。御祭神は、正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命。もとは大山祇命を祀ったとも。あるいは猿田彦大神とも。
由緒もあまり伝わらないが、『伊賀国誌』によれば、安土桃山時代の天正14年(1586年)6月、社殿を新築し遷宮式が行われたという。
江戸時代には「高土明神」と称していた。ただ、式内社「比地神社」の所在は一貫して不明だった。
明治34年(1901年)、当社が式内社に比定された。長田荘百田村比自山も候補だったが、両村の協議で決定されたという。
明治40年(1907年)、周辺の神社を合祀。現在までに、健速須佐之男命・大物主神・火之加具土神・市杵嶋比売命・猿田彦神を配祀する。
明治41年(1908年)4月25日、当時は穴穂神社と呼ばれていた、現在の神戸神社に合祀された。
しかし、合祀の時に軋轢があったようで、時期は不明ながら、現在地に社殿が再建された。ただし、前述のように、現在、当社は神戸神社の飛地境内社。
もともとの鎮座地は、現在地の東30メートルほどの山の中で、古跡の石碑が建っているという。
なお、神戸神社でも引き続き、比地神社御祭神を奉斎し続けている。また、市内長田の射手神社に合祀された無格社が、式内社「比地神社」の論社とされることがある。
【ご利益】
五穀豊穣、地域安全、一族・子孫繁栄

【関連記事】
・三重県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、三重県に鎮座している神社の一覧
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比地神社(ひじじんじゃ)は、三重県伊賀市比土にある神社。高土之宮(たかつちのみや)、あるいは高土之宮比地神社とも。現在は神戸神社の飛地境内社である。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 伊賀国 伊賀郡「比地神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
伊賀神戸駅の東500メートルほど、伊賀神戸駅で合流する、近鉄伊賀線と近鉄大阪線の間にある、来迎寺脇の道を登った小山に鎮座する。
創建年代は不詳。御祭神は、正哉吾勝勝速日天之忍穂耳命。もとは大山祇命を祀ったとも。あるいは猿田彦大神とも。
由緒もあまり伝わらないが、『伊賀国誌』によれば、安土桃山時代の天正14年(1586年)6月、社殿を新築し遷宮式が行われたという。
江戸時代には「高土明神」と称していた。ただ、式内社「比地神社」の所在は一貫して不明だった。
明治34年(1901年)、当社が式内社に比定された。長田荘百田村比自山も候補だったが、両村の協議で決定されたという。
明治40年(1907年)、周辺の神社を合祀。現在までに、健速須佐之男命・大物主神・火之加具土神・市杵嶋比売命・猿田彦神を配祀する。
明治41年(1908年)4月25日、当時は穴穂神社と呼ばれていた、現在の神戸神社に合祀された。
しかし、合祀の時に軋轢があったようで、時期は不明ながら、現在地に社殿が再建された。ただし、前述のように、現在、当社は神戸神社の飛地境内社。
もともとの鎮座地は、現在地の東30メートルほどの山の中で、古跡の石碑が建っているという。
なお、神戸神社でも引き続き、比地神社御祭神を奉斎し続けている。また、市内長田の射手神社に合祀された無格社が、式内社「比地神社」の論社とされることがある。
【ご利益】
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