もとは春日社、春日大社の神が見たいと宣った八重桜、芭蕉も一句
[住所]三重県伊賀市予野194
[電話]0595-39-0526

花垣神社(はながきじんじゃ)は、三重県伊賀市予野にある神社。御朱印の有無は不明。

平安時代、一条天皇(在位:986年-1011年)の御宇、当地の銘樹である八重桜を上献し、後に、桜の周りに垣をめぐらしたことで、花垣の地名が生まれた。

寛弘元年(1004年)、春日大社の春日神が八重桜を見たいと宣い、春日神を奉遷して祀ったのが、当社の起源だという。

御祭神は、天児屋根命経津主命武甕槌命・比売大神の春日四神。もとは春日神社で、長らく春日神社と呼ばれていた。

一方で、一条天皇の中宮である彰子が、奈良興福寺の境内に植えられていた八重桜の噂を聞き、宮中の庭へ植え替えようとした。

根っこから引き抜き、荷車に乗せ、今の若草山の奥あたりまで来た時、興福寺の僧が「命にかけてもその桜、京へは渡せぬ」と追ってきた。

そこで彰子も断念し、後に伊賀予野を興福寺領として与え、そこでサクラを育てさせ、桜が花盛りの七日の間は宿直して花を守る花守を遣わした。

予野庄は以来、「花守の庄」とし、庄の人々はサクラを育て守ることに精を出したという。今でも「花垣の庄」と呼ばれる花守の子孫がいるという。

どちらにしても、興福寺=春日大社であるから、話しの大筋は変わらないか。

現在は県の天然記念物に指定されている八重桜は、社前左手にあり、江戸時代の元禄3年(1690年)には松尾芭蕉も当地に来て、下記の句を残している。
ひと里は みな花守の 子孫かや
平成25年(2013年)のNHK大河ドラマ『八重の桜』ゆかりともされるが、名のみの共通で、特に関係は見いだせないか。

明治41年(1908年)9月19日、三郷神社に改称して、桂の集落にあった式内社である乎美祢神社(乎美禰神)を合祀した。

この乎美祢神社が、『延喜式』巻9・10神名帳 東海道神 伊賀国 伊賀郡「乎美祢神社」に比定される式内社(小社)。

また、同年内に、境内の神明社・津島社・金峯社・八幡社・八柱社・三柱社・秋葉社・桜木社・稲荷社、さらに、村内22社を合併、現在、下記の神々を合祀している。

大日孁貴神五男三女命誉田別命安閑天皇木花咲夜姫命宇迦能御魂神八衢比古神・八衢比売神・久那戸神・建速須佐之男命市杵嶋姫命菅原道真大山祇神火産霊神三筒男神大己貴神

大正13年(1924年)11月12日、現社号に改称した。戦後になってか、乎美祢神社は復社、旧社地にはもともと境内が残され、現在も祭祀が続けられている。

例祭は10月18日。

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花垣神社 三重県伊賀市予野
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