入鹿の怨念に追いかけられた鎌足が逃げ込んだのは、物部系の祖神
[住所]奈良県高市郡明日香村村上172
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気都和既神社(けつわきじんじゃ)は、奈良県高市郡明日香村村上にある神社。御朱印の有無は不明。

『延喜式神名帳』にある「氣都倭既神社(大和国・高市郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

石舞台古墳から県道155号線を東へ2キロほど、往古は細川と呼ばれた冬野川の流れる谷あいに鎮座する。
「柿本朝臣人麿之歌集」『万葉集』巻9 1704
ふさ手折り 多武の山霧 しげみかも 細川の瀬に 波の騒ける
当社地は、「もうこんの森」「茂古の杜」「気都和既の杜」などと呼ばれる。

皇極天皇4年(645年)、中臣鎌足らが蘇我入鹿を暗殺した。いわゆる乙巳の変である。

その時、入鹿の首が追いかけてきたので、鎌足は板蓋宮から当地まで逃げて、「もう追いかけては来まい」と言ったという。これが森の名の由来。

境内には、鎌足がその際に腰かけた石がある。

御祭神は、気津別命。『新撰姓氏録』左京神別の真神田曽祢連条に、「神饒速日命の六世孫、伊香我色乎命、気津別命の後なり」とある。

真神田曽祢連は、『万葉集』に「明日香の真神原」などとある真神原に本拠を置いた飛鳥の豪族とされる。
『万葉集』巻8 1636
大口の 真神の原に 降る雪は いたくな降りそ 家もあらなくに
物部氏系の真神田宿禰の祖神を祀った社、ということになる。

物部氏を叩いたのが蘇我氏、その裔である入鹿。その入鹿に恨まれ、その怨念を防ぎたいと鎌足が考えた時、頼ったのが物部系の当社、ということになる。

当地から、藤原鎌足が祀られている談山神社も1キロほどの距離しかなく、近い。何らかの関係があるともされる。

藤原氏の総氏神、春日大社に代表されるように、物部系の神とされる経津主命が春日神に組み込まれているのとも関連するか。

明治末年に尾曽・細川両大字の春日神社(天津児屋根命)を合祀、この天津児屋根命二座を含め、現在は三座を祀る。

この合祀は神社合併によるものであり、鎌足とは直接は関係ないと思われるが。

【ご利益】
厄災除け、一族・子孫繁栄、諸願成就
気都和既神社  奈良県高市郡明日香村村上
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