一須賀古墳群、蘇我石川朝臣の根拠地にその祖を奉斎、10月だんじり
[住所]大阪府南河内郡河南町一須賀623
[電話]0721-34-9868 - 春日神社
一須何神社(いちすかじんじゃ、壹須何神社、壱須何神社)は、大阪府南河内郡河南町一須賀にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 石川郡「壱須何神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。石川の支流である梅川の中流左岸の台地上にあり、隣地大ケ塚の字名が示すように、この地は一須賀古墳群の一角にあたる。
当社もまた、古墳上に祀られたものと考えられる。この地は、蘇我氏の末裔である石川朝臣が栄えた場所であり、祖である蘇我石川宿禰を奉斎したのが創祀と考えられる。
一須賀古墳群は6世紀-7世紀の築造で、蘇我氏の最盛期に相当し、またその北側の磯長谷地域には蘇我氏との関わりの深い敏達、用明、推古、聖徳太子の陵墓伝承地もある。
河内源氏の末裔「石川源氏」の発祥の地で、源平合戦の頃には、この地で「石川城合戦」が行われた。
また、南北朝時代には、南朝楠木方の「石川城」として、戦略上の要地であったため、当社も再三にわたって兵火を受けた。
安土桃山時代の天正17年(1589年)、伊藤伊賀守秀盛からの境内免許の御証文が確認できる。その時、伊藤秀盛が奉納した湯釜は今も社宝として現存している。
現在の御祭神は、大己貴尊・天照皇大神・天児屋根尊・品陀別命。江戸時代初期から前期にかけてこのようになったと考えられる。
『河内名所図会』には、「一須賀神社は一須賀村にあり、延喜式内今天神と称す。当村大ヶ塚村の産土神也。宮寺に十一面観音を安置す」とある。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治40年(1907年)、石川村大字東山の村社である菅原神社、大伴村大字南大伴の村社である降旗神社を合祀した。
そのため、天滿大自在天神(菅原神社御祭神)・天忍日尊・天津彦火瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊・神日本磐余彦尊(以上、降旗神社御祭神)を併せて祀る。
例祭は10月17日近い土曜日。だんじりの宮入りがある。いわゆる南河内だんじり祭りの一つ。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、家内安全、開運招福

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一須何神社(いちすかじんじゃ、壹須何神社、壱須何神社)は、大阪府南河内郡河南町一須賀にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 石川郡「壱須何神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。石川の支流である梅川の中流左岸の台地上にあり、隣地大ケ塚の字名が示すように、この地は一須賀古墳群の一角にあたる。
当社もまた、古墳上に祀られたものと考えられる。この地は、蘇我氏の末裔である石川朝臣が栄えた場所であり、祖である蘇我石川宿禰を奉斎したのが創祀と考えられる。
一須賀古墳群は6世紀-7世紀の築造で、蘇我氏の最盛期に相当し、またその北側の磯長谷地域には蘇我氏との関わりの深い敏達、用明、推古、聖徳太子の陵墓伝承地もある。
河内源氏の末裔「石川源氏」の発祥の地で、源平合戦の頃には、この地で「石川城合戦」が行われた。
また、南北朝時代には、南朝楠木方の「石川城」として、戦略上の要地であったため、当社も再三にわたって兵火を受けた。
安土桃山時代の天正17年(1589年)、伊藤伊賀守秀盛からの境内免許の御証文が確認できる。その時、伊藤秀盛が奉納した湯釜は今も社宝として現存している。
現在の御祭神は、大己貴尊・天照皇大神・天児屋根尊・品陀別命。江戸時代初期から前期にかけてこのようになったと考えられる。
『河内名所図会』には、「一須賀神社は一須賀村にあり、延喜式内今天神と称す。当村大ヶ塚村の産土神也。宮寺に十一面観音を安置す」とある。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治40年(1907年)、石川村大字東山の村社である菅原神社、大伴村大字南大伴の村社である降旗神社を合祀した。
そのため、天滿大自在天神(菅原神社御祭神)・天忍日尊・天津彦火瓊瓊杵尊・彦火火出見尊・彦波瀲武鵜鵜草葺不合尊・神日本磐余彦尊(以上、降旗神社御祭神)を併せて祀る。
例祭は10月17日近い土曜日。だんじりの宮入りがある。いわゆる南河内だんじり祭りの一つ。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、家内安全、開運招福

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