大正期は寒村、今でも神楽殿・お囃子連なし、区内随一の山車
[住所]東京都世田谷区八幡山1-12-2
[電話]-
八幡神社(はちまんじんじゃ)は、東京都世田谷区八幡山にある神社。八幡山八幡神社とも。正式には八幡社のみで、八幡山八幡社とも。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳。『新編武蔵風土記稿』にもある通り、旧別当は真言宗智山派の東覚院で、その開基は鎌倉時代とも、室町時代ともされている。
別当寺や創建不詳は、柏谷八幡神社とも共通している。当社の御祭神は誉田別命(応神天皇)。
八幡山は、当社にちなむ命名ともされる。梶山村・鍛冶山村などとも呼ばれ、鍛冶屋が必要とする炭をまかなう山・森だった、とも。
『新編武蔵風土記稿』にも「山林の内」に当社は鎮座していたとある。実際、縄文時代の八幡山遺跡からは江戸時代のものと思われる炭焼窯も発掘されている。
現在の社殿に建替えた際に奥宮の裏から江戸時代後期の文化7年(1810年)銘が見つかっており、狛犬も幕末の元治元年(1864年)の寄進。
明治4年(1871年)10月、村社に列し、明治41年(1908年)には会計法指定神社となった。
明治42年(1909年)3月6日、当社の北約100メートルのところにある、由来・沿革・御祭神については全く不明の稲荷神社を合祀した。
当社の現在の相殿には倉稲魂命が祀られているが、この合祀の関係か。しかし、大正時代にはこの稲荷社はもとの現在地に復社したとされる。
水利などが悪く、大正時代になっても、大正9年(1920年)の国勢調査では、24世帯154人と寒村だったという。
大正12年(1923年)の関東大震災の後の復興需要で、山の杉を売り、その後に竹林として、竹の子が名産となって、貴重な収入源になり、徐々に人口が増えたという。
例祭は9月22日。秋祭りで、23日に神輿渡御がある。かつては寒村だったために、当社境内に村人が集まり、酒を酌み交わすだけの「とっくり祭」だったとも。
現在は、区内で最も立派とされる山車があり、とても寒村の過去は思い出せないが、神楽殿がなく、お囃子連がいないなど、若干ながら昔の面影を探しうるか。
【ご利益】
開運招福、厄災除け、商売繁盛

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・東京都の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、東京都に鎮座している神社の一覧
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八幡神社(はちまんじんじゃ)は、東京都世田谷区八幡山にある神社。八幡山八幡神社とも。正式には八幡社のみで、八幡山八幡社とも。近代社格では村社。御朱印の有無は不明。
創建年代は不詳。『新編武蔵風土記稿』にもある通り、旧別当は真言宗智山派の東覚院で、その開基は鎌倉時代とも、室町時代ともされている。
別当寺や創建不詳は、柏谷八幡神社とも共通している。当社の御祭神は誉田別命(応神天皇)。
八幡山は、当社にちなむ命名ともされる。梶山村・鍛冶山村などとも呼ばれ、鍛冶屋が必要とする炭をまかなう山・森だった、とも。
『新編武蔵風土記稿』にも「山林の内」に当社は鎮座していたとある。実際、縄文時代の八幡山遺跡からは江戸時代のものと思われる炭焼窯も発掘されている。
現在の社殿に建替えた際に奥宮の裏から江戸時代後期の文化7年(1810年)銘が見つかっており、狛犬も幕末の元治元年(1864年)の寄進。
明治4年(1871年)10月、村社に列し、明治41年(1908年)には会計法指定神社となった。
明治42年(1909年)3月6日、当社の北約100メートルのところにある、由来・沿革・御祭神については全く不明の稲荷神社を合祀した。
当社の現在の相殿には倉稲魂命が祀られているが、この合祀の関係か。しかし、大正時代にはこの稲荷社はもとの現在地に復社したとされる。
水利などが悪く、大正時代になっても、大正9年(1920年)の国勢調査では、24世帯154人と寒村だったという。
大正12年(1923年)の関東大震災の後の復興需要で、山の杉を売り、その後に竹林として、竹の子が名産となって、貴重な収入源になり、徐々に人口が増えたという。
例祭は9月22日。秋祭りで、23日に神輿渡御がある。かつては寒村だったために、当社境内に村人が集まり、酒を酌み交わすだけの「とっくり祭」だったとも。
現在は、区内で最も立派とされる山車があり、とても寒村の過去は思い出せないが、神楽殿がなく、お囃子連がいないなど、若干ながら昔の面影を探しうるか。
【ご利益】
開運招福、厄災除け、商売繁盛

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