静岡市街地随一のパワースポットは、家康人質時代からの崇敬社
[住所]静岡県静岡市葵区紺屋町7-13
[電話]054-252-6660
小梳神社(おぐしじんじゃ)は、静岡県静岡市葵区紺屋町にある神社。神紋は京都八坂神社と同じ巴紋と木瓜紋。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「小梳神社(駿河国・安倍郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
創建年代は不詳。もとは小梳の地、後に東川辺と呼ばれた、現在の県庁の東側の地に鎮座した。
社号「小梳」は、現在「おぐし」と読まれているが、『延喜式神名帳』には「をくし」、異本では「おけつり」とあるという。
旧鎮座地が、水の中に浮かぶ島(中州)にあったことから、アイヌ語の「おぐしり」が語源との説もある。
奈良時代の大宝元年(701年)制定された大宝令の定めにより、横田駅が設けられて以来、その守護神として信仰された。
貞観年間(859年-877年)から祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当社は少将井神社とも呼ばれるようになった。
現在も境内には、霊水「少将の井」があり、地元では「少将さん」と親しまれている。御祭神は、建速須佐之男命・奇稲田姫命。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。
諸郡神階帳にも「正五位下安倍郡小楠神社」とある。東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も加わった。
特に徳川家康が幼時今川家の人質として当社の傍に住居し、日夜武運長久を祈願したと伝わる。今川義元との初対面を前にして、やはり当社を参拝したとも。
元和元年(1615年)、大阪夏の陣が終り天下を平定、家康がこの駿府城にとどまってからは、代々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神の2神が合祀された。
以降、少将井五所大神宮と称され、同年9月3日に林道春に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。
以上で4柱、「五所」のもう1柱は、現在の相殿神である猿田彦命か、境内社だった金山彦神社(金山彦命)を合祀したものか。現在の拝殿の扁額には、金山彦神社も記されている。
駿河大納言徳川忠長は寛永8年(1631年)、新谷町に仮宮を造って奉遷し、延宝3年(1675年)、現在地に社殿を造営して遷宮した。
翌延宝4年(1676年)からは隔年で神幸祭が行われるようになり、「ぎおん祭」と呼ばれたという。
この祭典では、町奉行、与力、同心が警護にあたり、加番衆出し馬があり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物なと踟物を出したという。
この伝統が今日まで引き継がれ、2年に一度の神幸祭の年の7月下旬、猿田彦命が先導するにぎやかな巡行が、市中心部を回る。
明治8年(1875年)2月、郷社に列した。明治9年(1876年)と明治25年(1892年)に静岡繁華街に大火があり、当社も類焼したが復興。
明治41年(1908年)1月には神饌幣帛供進社に指定され、同年7月、県社に昇格。
昭和15年(1940年)1月の静岡市大火により社殿が焼失、同年建築した仮社殿も昭和20年(1945年)6月20日の戦災により再度炎上した。
戦後になり、順次復興を果たした。
境内社に、開運の神として信仰される稲荷神社(豊受比売神)、出世弁天社と呼ばれる宗像神社(多紀理姫命・市寸島姫命・多岐都姫命)がある。
静岡市街地メインストリートの一つに鎮座し、静岡市街地随一のパワースポットと名高い。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、病気平癒、出世開運

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小梳神社(おぐしじんじゃ)は、静岡県静岡市葵区紺屋町にある神社。神紋は京都八坂神社と同じ巴紋と木瓜紋。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式神名帳』にある「小梳神社(駿河国・安倍郡)」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社。
創建年代は不詳。もとは小梳の地、後に東川辺と呼ばれた、現在の県庁の東側の地に鎮座した。
社号「小梳」は、現在「おぐし」と読まれているが、『延喜式神名帳』には「をくし」、異本では「おけつり」とあるという。
旧鎮座地が、水の中に浮かぶ島(中州)にあったことから、アイヌ語の「おぐしり」が語源との説もある。
奈良時代の大宝元年(701年)制定された大宝令の定めにより、横田駅が設けられて以来、その守護神として信仰された。
貞観年間(859年-877年)から祇園信仰が全国に拡まるに連れて、当社は少将井神社とも呼ばれるようになった。
現在も境内には、霊水「少将の井」があり、地元では「少将さん」と親しまれている。御祭神は、建速須佐之男命・奇稲田姫命。素戔嗚尊奉祀神社「全国清々会」にも加盟している。
諸郡神階帳にも「正五位下安倍郡小楠神社」とある。東川辺の地に駿府城が築かれて以来は、府城の守護神としての信仰も加わった。
特に徳川家康が幼時今川家の人質として当社の傍に住居し、日夜武運長久を祈願したと伝わる。今川義元との初対面を前にして、やはり当社を参拝したとも。
元和元年(1615年)、大阪夏の陣が終り天下を平定、家康がこの駿府城にとどまってからは、代々徳川家の守り神伝わる大巳貴命、天照大神の2神が合祀された。
以降、少将井五所大神宮と称され、同年9月3日に林道春に命じてこの由を社講に識さしめ奉献したものが現存している。
以上で4柱、「五所」のもう1柱は、現在の相殿神である猿田彦命か、境内社だった金山彦神社(金山彦命)を合祀したものか。現在の拝殿の扁額には、金山彦神社も記されている。
駿河大納言徳川忠長は寛永8年(1631年)、新谷町に仮宮を造って奉遷し、延宝3年(1675年)、現在地に社殿を造営して遷宮した。
翌延宝4年(1676年)からは隔年で神幸祭が行われるようになり、「ぎおん祭」と呼ばれたという。
この祭典では、町奉行、与力、同心が警護にあたり、加番衆出し馬があり、駿府の町々は一番より四番まで組合を定め各町より屋台、台の物なと踟物を出したという。
この伝統が今日まで引き継がれ、2年に一度の神幸祭の年の7月下旬、猿田彦命が先導するにぎやかな巡行が、市中心部を回る。
明治8年(1875年)2月、郷社に列した。明治9年(1876年)と明治25年(1892年)に静岡繁華街に大火があり、当社も類焼したが復興。
明治41年(1908年)1月には神饌幣帛供進社に指定され、同年7月、県社に昇格。
昭和15年(1940年)1月の静岡市大火により社殿が焼失、同年建築した仮社殿も昭和20年(1945年)6月20日の戦災により再度炎上した。
戦後になり、順次復興を果たした。
境内社に、開運の神として信仰される稲荷神社(豊受比売神)、出世弁天社と呼ばれる宗像神社(多紀理姫命・市寸島姫命・多岐都姫命)がある。
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