「弾除けの神」戦前奉納写真が多数、返還事業で知られる式内論社
三坂神社 山口県山口市徳地岸見字樋ノ口557
[住所]山口県山口市徳地岸見字樋ノ口557
[電話]0835-52-0688

三坂神社(みさかじんじゃ)は、山口県山口市徳地岸見樋ノ口にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 周防国 佐波郡「御坂神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社

第12代景行天皇12年、周防佐婆への行幸に際し、周防佐麻呂が神託によって三綱柏の葉に、飯・川蜷(カワニナ)を包んで祭祀が行われたことを起源とする。

その際の主祭神は、道返大神。奈良時代の天平10年(738年)、『周防国正税帳』に「周防国御坂神社に春秋祭祀料又、神社改造の雑用等を充て奉らしめ給う」とある。

平安時代になり、『続日本後紀』承和6年(839年)の条で、「周防国三坂神社に従五位下を授け奉る」とある。『日本三代実録』貞観9年(867年)に従三位に進む。

『長寛勘文』によれば、「天慶3年(940年)、諸神社位記請印の事あり、去る承平5年(935年)、海賊を平ぐる事を十三社に祈り申す。三坂神に正三位を加う」とある。

『周防徳地誌』に「足利尊氏西国に走る途次、三坂神社に参り、能楽を奏して、御神意を慰め奉り、神馬・馬具等を献納せり」とあり、参道の石畳は尊氏が敷いたという。

また、豊臣秀吉も「三坂神社に参り、五色の吹貫等を献納し、当社の釣鐘を借りて用い、石州津和野永明寺に返したるものなり…」という。

二ノ鳥居の銘に「延書式内三坂神社(中略)大江侍従吉広元禄十一年(1698年)戊陽月」とあり、長州藩4代藩主毛利吉広の寄進であったことが分る。

再々火災に遭ったようで、造営の記録が多い。

天徳年間(957年-961年)に始まり、鎌倉時代の建長7年(1255年)、室町時代の応永2年(1395年)、戦国時代の文明11年(1479年)、大永2年(1522年)、安土桃山時代の天正6年(1578年)、江戸時代の延宝8年(1680年)など。

幕末の文久元年(1861年)に現在の社殿が建てられた。

宝永年間(1704年-1711年)以来、現在の船路八幡宮との間で式内社の論争があった。明治4年(1871年)に決着し、当社が認定された。

明治8年(1875年)、郷社に列した。日清・日露戦争の際、当社に武運長久を祈願した人が全員無事に帰還したことが報道され、「弾除けの神」として有名になった。

大正8年(1919年)、県社に昇格。昭和になり、日中戦争以降、武運長久祈願のための参拝者が激増、最高で1日に880人が祈願したという。

終戦後、参拝者名簿は事前に焼却し、祈願写真は隣家の床下に隠して無事なものもあり、その数一万数千枚に達するという。

この奉納写真は平和を希求して返還の事業が行われており、現在でもその模様が各種報道で取り上げられる。

現在までに、主祭神は大国主命事代主命。速玉之男命・道反大神を配祀し、素盞鳴尊大歳神埴山姫命を合祀する。例祭は4月5日。

【ご利益】
武運長久・勝運、平和、商売繁盛・事業成功
三坂神社 山口県山口市徳地岸見樋ノ口
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