武将崇敬の勝間八幡宮、豊臣秀吉が奉納した諌鼓踊が今に伝わる
[住所]山口県周南市大字呼坂字勝間1322
[電話]0833-91-2505
熊毛神社(くまげじんじゃ)は、山口県周南市呼坂勝間にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 周防国 熊毛郡「熊毛神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。
創祀年代は不詳だが、奈良時代の天平10年(738年)、『周防国正税帳』に「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。
主祭神は、御毛入沼命・玉依姫命。母子という組み合わせだが、なぜ当地に初代神武天皇の兄が奉斎されているのかは不詳。
『注進案』によれば、周防一宮厨子大神といい、称徳天皇(在位:764年-770年)の御代、勝間村清霊丘の松の枝に鏡があって、毎夜光を放っていた。
そこに、当山鎮護の大戸道尊と名乗る老翁が現れ、この鏡を神光霊照鏡と号した。この時鏡より大戸道尊と一礼分身の八幡大神という一人の童子が現れた。
「この山を亀井山と唱え、社殿を建てよ。そうすれば、永く宝柞延長、国家安全を守るべし」と告げ飛び去ったという。
その後、里人により社殿が建立され、また八幡宮の本地は阿弥陀仏の化現であるというお告げにより、新たに神光霊照鏡守護の堂場として神光院が建立されたという。
この時、八幡宮として、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后が配祀されたと考えられる。
勝間八幡宮と称され、鎌倉時代の寛元3年(1245年)4月20日、「勝間八幡」との記載が見られるという。
その後、大内・内藤・毛利氏などの厚い崇敬を受け、安土桃山時代の天正17年(1589年)の検地には、「田六町五反十歩、畠四反」の神領があった。
また、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、当杜を訪れ、地名を聞いたところ「勝間」だったので、出征に際して縁起が良いと、戦勝を祈願したという。
帰陣の際、秀吉は再び参拝、神馬一疋、太刀一腰、箕六本、八幡御幸の絵、両部の曼茶羅、百石の判物を寄進したという。
さらにこの時、諌鼓踊(かんこおどり)と称する舞踊が奉納された。これが7年ごとの秋季例祭、10月11日に現在も行われている。
この踊りは、手木男1人、旗持男1人、ほら貝ふき男1人、杖術者男2人、大聖男1人、小聖男1人、音頭難男2人、踊子男子12人から構成されている。
諌鼓踊は、一説に、陶晴賢が大内義隆を討ち取った時の様子を模したものとも伝えられており、現在は県の無形文化財に指定されている。
江戸時代には社殿の再建や修理に、藩主の多額の寄進があった。幕末頃から「式内熊毛神社」と称するようになったという。
明治6年(1873年)、郷社に列し、明治19年(1886年)に本殿を、明治30年(1897年)に拝殿を再建した。
明治40年(1907年)、白山神社(菊理媛命・伊弉諾命・伊弉册命)を合祀。大正4年(1915年)には県社に昇格した。
宝物として、大内弘貞・内藤興盛・毛利輝元など、多くの古文書を有する。
なお、式内社「熊毛神社」の論社は他に、柳井市の賀茂神社、岩国市周東町の岩隈八幡宮、市内樋ノ口の大歳神社がある。
【ご利益】
武運長久・勝運、平穏安寧、家内安全

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熊毛神社(くまげじんじゃ)は、山口県周南市呼坂勝間にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 山陽道神 周防国 熊毛郡「熊毛神社」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では県社。
創祀年代は不詳だが、奈良時代の天平10年(738年)、『周防国正税帳』に「熊毛神社に稲四十束の臨時祭祀料奉献」とある。
主祭神は、御毛入沼命・玉依姫命。母子という組み合わせだが、なぜ当地に初代神武天皇の兄が奉斎されているのかは不詳。
『注進案』によれば、周防一宮厨子大神といい、称徳天皇(在位:764年-770年)の御代、勝間村清霊丘の松の枝に鏡があって、毎夜光を放っていた。
そこに、当山鎮護の大戸道尊と名乗る老翁が現れ、この鏡を神光霊照鏡と号した。この時鏡より大戸道尊と一礼分身の八幡大神という一人の童子が現れた。
「この山を亀井山と唱え、社殿を建てよ。そうすれば、永く宝柞延長、国家安全を守るべし」と告げ飛び去ったという。
その後、里人により社殿が建立され、また八幡宮の本地は阿弥陀仏の化現であるというお告げにより、新たに神光霊照鏡守護の堂場として神光院が建立されたという。
この時、八幡宮として、仲哀天皇・応神天皇・神功皇后が配祀されたと考えられる。
勝間八幡宮と称され、鎌倉時代の寛元3年(1245年)4月20日、「勝間八幡」との記載が見られるという。
その後、大内・内藤・毛利氏などの厚い崇敬を受け、安土桃山時代の天正17年(1589年)の検地には、「田六町五反十歩、畠四反」の神領があった。
また、豊臣秀吉の朝鮮出兵の際、当杜を訪れ、地名を聞いたところ「勝間」だったので、出征に際して縁起が良いと、戦勝を祈願したという。
帰陣の際、秀吉は再び参拝、神馬一疋、太刀一腰、箕六本、八幡御幸の絵、両部の曼茶羅、百石の判物を寄進したという。
さらにこの時、諌鼓踊(かんこおどり)と称する舞踊が奉納された。これが7年ごとの秋季例祭、10月11日に現在も行われている。
この踊りは、手木男1人、旗持男1人、ほら貝ふき男1人、杖術者男2人、大聖男1人、小聖男1人、音頭難男2人、踊子男子12人から構成されている。
諌鼓踊は、一説に、陶晴賢が大内義隆を討ち取った時の様子を模したものとも伝えられており、現在は県の無形文化財に指定されている。
江戸時代には社殿の再建や修理に、藩主の多額の寄進があった。幕末頃から「式内熊毛神社」と称するようになったという。
明治6年(1873年)、郷社に列し、明治19年(1886年)に本殿を、明治30年(1897年)に拝殿を再建した。
明治40年(1907年)、白山神社(菊理媛命・伊弉諾命・伊弉册命)を合祀。大正4年(1915年)には県社に昇格した。
宝物として、大内弘貞・内藤興盛・毛利輝元など、多くの古文書を有する。
なお、式内社「熊毛神社」の論社は他に、柳井市の賀茂神社、岩国市周東町の岩隈八幡宮、市内樋ノ口の大歳神社がある。
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