神功皇后を助けた女神2柱、新羅賊船も撃退、後に八幡を合祀
天健金草神社 島根県隠岐郡隠岐の島町都万4243
[住所]島根県隠岐郡隠岐の島町都万4243
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天健金草神社(あまたけかなかやじんじゃ)は、島根県隠岐郡隠岐の島町都万にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 山陰道神 隠岐国 隠地郡「天健金草神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では県社

御祭神は、大屋津媛命、抓津媛命。大屋津媛命はもとは現在地の西南西約2キロの、海に接した断崖の下に降臨したという。

抓津媛命は、もとは同じく東北北約2キロの挾山涌水、幣池に降臨、その地には今も抓津比売命を御祭神とする幣池神社という小祠がある。

この二柱の女神は、神功皇后の西征の際、兄である五十猛神の命により、皇后に奉侍したとも伝わる。第14代仲哀天皇の時代に祭祀された、というのはこのことか。

創建は奈良時代の天平勝宝7年(755年)、八幡原に社殿を建立した。

幣池の南方約1.5キロ下流にある天健淵の正八幡宮を合祀したために八幡原と呼ばれるようになった地だという。

正八幡宮の御祭神は、応神天皇・息長帯姫命・玉依姫命

平安時代になり、貞観13年(871年)閏8月29日に従四位下、仁和元年(885年)に従四位上、寛平元年(889年)には正四位下に進んだ。

延喜6年(906年)、天健金草神の託宣があり、北海に新羅の賊船が数隻浮かんでおり、これを追い返すために大風を吹かせた、という。

天慶3年(940年)には従三位に叙された。寛弘3年(1006年)3月、八幡原から現在地に遷座した。

中世以降近世までは不詳。一般に八幡宮と呼ばれ続けたらしい。幕末の文久元年(1861年)に焼失したが、元治元年(1864年)に再建された。

明治5年(1872年)10月、村社に列し、大正5年(1916年)11月には神饌幣帛料供進社に指定された。昭和9年(1934年)4月には県社に昇格。

現在までに、塩土老翁建御名方命を合祀している。建御名方命は、大正6年(1917年)に合祀した諏訪神社の御祭神。

例祭は4月15日。御幸祭・百手的祭・放生会を三大祭とする。放生会は明治以降、秋祭(9月15日)と名を変えた。

御幸祭は寛弘3年(1006年)3月から始まったもので、一時中断をはさんだが、明治になって再興された。

【ご利益】
水難除け、武運長久・勝運、厄災除け
天健金草神社 島根県隠岐郡隠岐の島町都万
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