美努連・三野県主の祖神、玉櫛川の堤防跡、10月にふとん太鼓
[住所]大阪府八尾市上之島町南1-71
[電話]072-924-0966
御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)は、大阪府八尾市上之島町南にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 若江郡「御野県主神社二座」に比定される式内社(小社、鍬靫)。近代社格では村社。
現在の八尾市上之島地区、旧河内国河内郡上之島村の氏神である。かつてこの地一帯を支配していた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神を奉斎する。
『古事記』には、第10代崇神天皇の御代、疫病が流行した時、大物主神の裔である意富多多泥古を河内国美努村で探し当てたとある。当地付近だと考えられる。
『新撰姓氏録』河内神別には、美努連は角凝魂命(つのこりのみこと)の四世孫である天ノ湯川田奈命(天湯河棚命)から起こるとある。
角凝魂命は神皇産霊尊の子。阪南市石田の波太神社にも角凝魂命と天ノ湯川田奈命の伝承が残る。
三野縣主について、『日本書紀』第22代清寧天皇条に河内三野県主小根がみえる。
天武天皇13年(685年)に三野県主は連の姓を賜う。その後、美努の氏名は美奴・三野・三努とも書き、美努連は三野県主の後裔氏族となる。
美努連の一族の三野連岡麻呂は、大宝2年(702)、第七次遣唐使の一行に加わった。
また、美努連浄麻呂は慶雲3年(706年)、遣新羅大使となり、新羅国王の勅書に浄麻呂の名が記されている。
他に、三野連石守は『万葉集』に名を連ね、美奴連智麻呂・美努連清庭・美努連清名などの一族とともに対外交渉、学問分野で活躍した。
社名の「御野県主」は三野県主と同じ意。当社の創建年代は不詳。御祭神は、角凝魂命・天湯川田奈命。
中世以降の当社の状況は不詳。江戸時代初期の元和元年(1615年)、大阪夏の陣の兵火にかかったがその後再建された。
江戸時代には天日大明神と呼ばれ崇敬された。しかし、江戸時代中期の宝永4年(1707年)11月、地震により本殿・拝殿が崩壊した。
本大字住民新右兵衛門が首となって有志を募り、翌宝永5年(1708年)、再建した。江戸時代後期の文化14年(1817年)3月には拝殿を新築した。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治42年(1909年)6月には神饌幣帛料供進神社に指定された。
境内社に、稲荷大神(倉稲魂神・猿田彦命・大宮女命)、日吉大神(三王権現)、菅原大神(菅原道真)、天照皇大神(天照大神・豊受大神)、八幡大神(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)、厳島大神(市杵島姫命)がある。
例祭は10月15日で、ふとん太鼓の巡行がある。また、7月2日の夏祭とともに、御神楽が奉納される。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧 大和川)の堤防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。
市の保全樹林に指定され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
本社のある場所から少し南、東山本町5丁目公園の脇にもう一座があり、「式部御野縣主神社」(式部之宮)と呼ばれる。こちらは狭い敷地内に社殿があるのみ。
ここは旧高安郡万願寺村の集落はずれにあたり、かつて江戸時代中期に水利権争いで村が分裂し、式部集落が南の万願寺村に移ったときに御分霊を勧請したもの。
なお、美努連の同系の氏族に鳥取氏があり、現在の柏原市高井田には天湯川田神社、宿奈川田神社がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、学業・受験合格、事業成功

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[電話]072-924-0966
御野縣主神社(みのあがたぬしじんじゃ)は、大阪府八尾市上之島町南にある神社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 若江郡「御野県主神社二座」に比定される式内社(小社、鍬靫)。近代社格では村社。
現在の八尾市上之島地区、旧河内国河内郡上之島村の氏神である。かつてこの地一帯を支配していた豪族・美努連(みぬのむらじ)、三野縣主一族の祖神を奉斎する。
『古事記』には、第10代崇神天皇の御代、疫病が流行した時、大物主神の裔である意富多多泥古を河内国美努村で探し当てたとある。当地付近だと考えられる。
『新撰姓氏録』河内神別には、美努連は角凝魂命(つのこりのみこと)の四世孫である天ノ湯川田奈命(天湯河棚命)から起こるとある。
角凝魂命は神皇産霊尊の子。阪南市石田の波太神社にも角凝魂命と天ノ湯川田奈命の伝承が残る。
三野縣主について、『日本書紀』第22代清寧天皇条に河内三野県主小根がみえる。
天武天皇13年(685年)に三野県主は連の姓を賜う。その後、美努の氏名は美奴・三野・三努とも書き、美努連は三野県主の後裔氏族となる。
美努連の一族の三野連岡麻呂は、大宝2年(702)、第七次遣唐使の一行に加わった。
また、美努連浄麻呂は慶雲3年(706年)、遣新羅大使となり、新羅国王の勅書に浄麻呂の名が記されている。
他に、三野連石守は『万葉集』に名を連ね、美奴連智麻呂・美努連清庭・美努連清名などの一族とともに対外交渉、学問分野で活躍した。
三野連石守『万葉集』巻8 1644『信貴山資財宝物帳』に延喜17年(917年)、美努常真・有貫などが若江郡三條竹村里を、承平6年(936年)、美努忠貞が渋川郡三條里苅里を施入したとの記事がある。
引き捩ぢて 折らば散るべみ 梅の花 袖に扱き入れつ 染まば染むとも
社名の「御野県主」は三野県主と同じ意。当社の創建年代は不詳。御祭神は、角凝魂命・天湯川田奈命。
中世以降の当社の状況は不詳。江戸時代初期の元和元年(1615年)、大阪夏の陣の兵火にかかったがその後再建された。
江戸時代には天日大明神と呼ばれ崇敬された。しかし、江戸時代中期の宝永4年(1707年)11月、地震により本殿・拝殿が崩壊した。
本大字住民新右兵衛門が首となって有志を募り、翌宝永5年(1708年)、再建した。江戸時代後期の文化14年(1817年)3月には拝殿を新築した。
明治5年(1872年)、村社に列し、明治42年(1909年)6月には神饌幣帛料供進神社に指定された。
境内社に、稲荷大神(倉稲魂神・猿田彦命・大宮女命)、日吉大神(三王権現)、菅原大神(菅原道真)、天照皇大神(天照大神・豊受大神)、八幡大神(仲哀天皇・応神天皇・神功皇后)、厳島大神(市杵島姫命)がある。
例祭は10月15日で、ふとん太鼓の巡行がある。また、7月2日の夏祭とともに、御神楽が奉納される。
境内西側は小高い丘になっており、かつて西側に流れていた玉櫛川(旧 大和川)の堤防跡であり、現在ではここだけにしか残っていないとされる。
市の保全樹林に指定され、貴重な史跡となっている。境内の南に御野縣池がある。
本社のある場所から少し南、東山本町5丁目公園の脇にもう一座があり、「式部御野縣主神社」(式部之宮)と呼ばれる。こちらは狭い敷地内に社殿があるのみ。
ここは旧高安郡万願寺村の集落はずれにあたり、かつて江戸時代中期に水利権争いで村が分裂し、式部集落が南の万願寺村に移ったときに御分霊を勧請したもの。
なお、美努連の同系の氏族に鳥取氏があり、現在の柏原市高井田には天湯川田神社、宿奈川田神社がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、学業・受験合格、事業成功

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