物部系の栗栖連の本貫、式内「栗栖神社」、中世には八尾城の地
[住所]大阪府八尾市本町7-7-27
[電話]072-993-4435

八尾神社(やおじんじゃ)は、大阪府八尾市本町にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 若江郡「栗栖神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。

旧若江郡西郷、木戸両村、現在の八尾市本町5丁目の北側、本町6・7丁目、東本町3丁目あたりの氏神である。

鎮座地は長瀬川(旧大和川)に沿い、周囲よりはやや高い土地で、弥生時代から集落があったと考えられる。

創祀年代は不詳。八尾市跡部は、『日本書紀』用明天皇2年(587年)4月丙午(2日)条にある物部守屋の阿都の別業が営まれた地。

一帯は物部氏及びその同族に深く関係した地で、物部氏の同族でこの地を本貫とした栗栖連が祖神を祀ったのに創まるとされ、古墳時代まで遡るとされる。

その関係で、式内社名の「栗栖」は、現鎮座地一帯の旧称だとされる。

また、八尾は、古くは矢尾・矢生・箭尾とも書かれ、物部氏の一族で矢作に従事した「矢作部」がおり、市内南本町には矢作神社がある。

また、尾先が八枚に分かれた鶯がおり、その名所であったことから、八尾となったとも伝えられる。

『日本三代実録』貞観4年(862年)4月12日に正六位上から従五位下に昇叙され、同年11月11日に官社とされた。

中世以降の詳細は不詳。鎮座地一帯は八尾荘と呼ばれ、当社は史料に欠くものの、その中心的な神社として崇められたと思われる。

南北朝時代には当社から西方200メートルにある常光寺の僧で八尾別当を称した顕幸が寺を中心に八尾城を構えて南朝方に与した。

しかし、湊川の戦い後、北朝方が城を入手したため、延元2年(1337年)に攻め寄せた南朝方の兵火に遭った。

当時の当社は常光寺の鎮守とされた可能性もあり、常光寺とともに八尾城の一郭に組み込まれていたと推定されるため、この兵火で罹災したと思われる。

また、八尾荘は室町時代の末期にも河内国守護の畠山氏の内紛のために戦乱の地となっており、この際にも罹災したと思われる。

近世には牛頭天王社として天徳寺を神宮寺とする西郷村の氏神とされたが、明治初めの神仏判然令を受けて天徳寺が廃寺となり、独立。

江戸時代中期の享保20年(1735年)の『河内志』以来、式内社に比定されていたため、明治になり栗栖神社に改称した。御祭神も改めて栗栖連の祖である宇麻志麻治命となった。

明治5年(1872年)4月に木戸村の八幡社(品陀和気命)を合祀、西郷・木戸両村の氏神として村社に列した。

明治41年(1908年)4月15日に萱振村の加津良神社と八尾中野の八阪神社を合祀して現社名に改称した。戦後に加津良、八阪の両神社は復社した。

本殿は春日造、明治中頃の造替。幣殿は梁間1間桁行3間の切妻造妻入、大正13年(1924年)の建築で拝殿に接続する。

拝殿は桁行5間梁間3間の入母屋造平入、天保12年(1841年)の建築。幣殿と拝殿は瓦葺。その他、神輿舎、社務所がある。

境内社に鶯神社、菅原神社の2社がある。また本殿の東側、菅原神社の横に昭和6年(1931年)に建碑された八尾城址の石碑がある。

例祭は10月15日。7月中旬に夏祭りで、ふとん太鼓がでる。

【ご利益】
一族・子孫繁栄、諸願成就
八尾神社 大阪府八尾市本町
【関連記事】
大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧