中期前方後円墳の上に鎮座、柿本氏の祖神、人麻呂の遺骨と歌塚
[住所]奈良県天理市櫟本町櫟本字宮山2490
[電話]0743-65-0418
和爾下神社(わにしたじんじゃ)は、奈良県天理市櫟本町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「和尓下神社二座(大和国・添上郡)」の一座に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。全長約105メートル、後円部径約60メートル、高さ約12メートルの中期前方後円墳である和爾下神社古墳の上に鎮座する。
もとは柿本氏がその祖神である天足彦国押人命を主祭神として祀ったものと考えられている。
現在の御祭神は、素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命。
奈良時代の神護景雲3年(769年)、東大寺領の櫟庄の水を引くため、高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直に作られた。
そのため、当社地や森を治道の森(治道の杜)と呼ぶようになり、宮を治道社といったという。
時代によって、治道天王、治道宮、春道社、牛頭天王社、さらに柿本寺との関係で柿本上宮とも呼ばれていた。
南北朝時代の建武4年(1337年)、北朝軍が当社や柿本寺に陣取って南朝軍と戦った記録が確認できる。
明治初年に式内社「和爾下神社」であると考証され、現社名に定まった。
式内もう一座は、大和郡山市の同名神社で、下治道天皇社と呼ばれるのに対して、当社は上治道天皇社と呼ばれる。
現在の本殿は、桁行3間、梁間2間、切妻造、向拝1間、檜皮葺。桃山時代の様式をそなえ、国の重要文化財に指定されている。
例祭は7月14日と10月14日で、7月のものは「祇園さん」と呼ばれる。
一説に、この地は第10代崇神天皇の時代に見える高橋邑であり、式内社「高橋神社」の地ではないかともいう。
現在では、当社の境内社である若宮社が「高橋神社」の論社。他の論社に、奈良市八条に式内同名神社がある。
他の境内社に、豊川稲荷社、厳島神社・十二神社、住吉神社、天照皇太神宮、天満神社、琴平神社、稲荷神社などがある。
また、柿本寺跡がある。歌聖柿本人麻呂の遺骨を葬った地とされ、歌塚が残る。柿本寺は室町時代ごろ、西約400メートルの天理市立櫟本小学校の西側へ移ったとされ、明治になり廃寺となった。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、技芸・スポーツ向上

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和爾下神社(わにしたじんじゃ)は、奈良県天理市櫟本町にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「和尓下神社二座(大和国・添上郡)」の一座に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
創建年代は不詳。全長約105メートル、後円部径約60メートル、高さ約12メートルの中期前方後円墳である和爾下神社古墳の上に鎮座する。
もとは柿本氏がその祖神である天足彦国押人命を主祭神として祀ったものと考えられている。
現在の御祭神は、素盞嗚尊・大己貴命・稲田姫命。
奈良時代の神護景雲3年(769年)、東大寺領の櫟庄の水を引くため、高瀬川の水路を今の参道に沿った線へ移し、道も新しく真直に作られた。
そのため、当社地や森を治道の森(治道の杜)と呼ぶようになり、宮を治道社といったという。
時代によって、治道天王、治道宮、春道社、牛頭天王社、さらに柿本寺との関係で柿本上宮とも呼ばれていた。
南北朝時代の建武4年(1337年)、北朝軍が当社や柿本寺に陣取って南朝軍と戦った記録が確認できる。
明治初年に式内社「和爾下神社」であると考証され、現社名に定まった。
式内もう一座は、大和郡山市の同名神社で、下治道天皇社と呼ばれるのに対して、当社は上治道天皇社と呼ばれる。
現在の本殿は、桁行3間、梁間2間、切妻造、向拝1間、檜皮葺。桃山時代の様式をそなえ、国の重要文化財に指定されている。
例祭は7月14日と10月14日で、7月のものは「祇園さん」と呼ばれる。
一説に、この地は第10代崇神天皇の時代に見える高橋邑であり、式内社「高橋神社」の地ではないかともいう。
現在では、当社の境内社である若宮社が「高橋神社」の論社。他の論社に、奈良市八条に式内同名神社がある。
他の境内社に、豊川稲荷社、厳島神社・十二神社、住吉神社、天照皇太神宮、天満神社、琴平神社、稲荷神社などがある。
また、柿本寺跡がある。歌聖柿本人麻呂の遺骨を葬った地とされ、歌塚が残る。柿本寺は室町時代ごろ、西約400メートルの天理市立櫟本小学校の西側へ移ったとされ、明治になり廃寺となった。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、技芸・スポーツ向上

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