料理人の祖神を奉斎した高橋氏の氏神、崇神朝の疫病の際に祭祀
[住所]奈良県奈良市八条5-338
[電話]0742-62-3240 - 八幡神社
高橋神社(たかはしじんじゃ)は、奈良県奈良市八条にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「高橋神社(大和国・添上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
佐保川の西側の堤防沿いに鎮座。創建年代は不詳。高橋氏が祖神を奉斎したものと考えられている。御祭神は、栲幡千千姫命。
第10代崇神天皇の御代、疫病が発生し、死者が多数に上った際、天皇の夢枕に大物主神が現れ、自身の裔の大田田根子を探し、祭祀させよと命じた。
『古事記』にも記載されている、この際、高橋邑の活人という者を酒人にしつらえ、御神酒を捧げさせたという。この高橋邑が当社の旧地だとされる。
現社地より100メートルほど北上した地が旧地とされ、そこからは神鏡3面が発見されており、現在は当社の御神宝になっている。
また、『日本書紀』第12代景行天皇53年の条に、「天皇、東国を巡狩し給い上総国に至り、海路、淡水水門を渡り給うとき、 海中に白蛤を得給う」。
そこで、「従い仕え給えし此の命、之れを膾に作りて献るに、天皇いたく其の美を賞し給うに膳臣を以てし給う。 十世の後、更に高橋の朝臣を賜う」とある。
この料理人が磐鹿六雁命であり、やはり高橋氏の祖として、当社で奉斎されているという。磐鹿六雁命を祀る神社は他に、高椅神社・高家神社などがある。
平安時代の貞観元年(859年)、正六位上から従五位下に昇叙。
戦国時代の永禄年間(1558年-1569年)、松永弾正の兵乱により、社殿が焼失した。そのため、現社地の近くに遷座したという。
昭和47年(1972年)、堤防沿いの道を拡幅した際に、少しだけ西へ移設、これが現在地となる。もとの地は、現境内の北東に接する少し小高いところだという。
例祭は3月22日で、春季例祭。
なお、式内社「高橋神社」の論社は他に、天理市櫟本町の和爾下神社の境内社である若宮社がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、料理の祖神

【関連記事】
・奈良県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、奈良県に鎮座している神社の一覧
[電話]0742-62-3240 - 八幡神社
高橋神社(たかはしじんじゃ)は、奈良県奈良市八条にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「高橋神社(大和国・添上郡)」に比定される式内社(小社)の論社。近代社格では村社。
佐保川の西側の堤防沿いに鎮座。創建年代は不詳。高橋氏が祖神を奉斎したものと考えられている。御祭神は、栲幡千千姫命。
第10代崇神天皇の御代、疫病が発生し、死者が多数に上った際、天皇の夢枕に大物主神が現れ、自身の裔の大田田根子を探し、祭祀させよと命じた。
『古事記』にも記載されている、この際、高橋邑の活人という者を酒人にしつらえ、御神酒を捧げさせたという。この高橋邑が当社の旧地だとされる。
現社地より100メートルほど北上した地が旧地とされ、そこからは神鏡3面が発見されており、現在は当社の御神宝になっている。
また、『日本書紀』第12代景行天皇53年の条に、「天皇、東国を巡狩し給い上総国に至り、海路、淡水水門を渡り給うとき、 海中に白蛤を得給う」。
そこで、「従い仕え給えし此の命、之れを膾に作りて献るに、天皇いたく其の美を賞し給うに膳臣を以てし給う。 十世の後、更に高橋の朝臣を賜う」とある。
この料理人が磐鹿六雁命であり、やはり高橋氏の祖として、当社で奉斎されているという。磐鹿六雁命を祀る神社は他に、高椅神社・高家神社などがある。
平安時代の貞観元年(859年)、正六位上から従五位下に昇叙。
戦国時代の永禄年間(1558年-1569年)、松永弾正の兵乱により、社殿が焼失した。そのため、現社地の近くに遷座したという。
昭和47年(1972年)、堤防沿いの道を拡幅した際に、少しだけ西へ移設、これが現在地となる。もとの地は、現境内の北東に接する少し小高いところだという。
例祭は3月22日で、春季例祭。
なお、式内社「高橋神社」の論社は他に、天理市櫟本町の和爾下神社の境内社である若宮社がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、料理の祖神

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