西側や川底に没した舟橋遺跡、由緒不詳も志紀氏、近世には牛頭天王
[住所]大阪府藤井寺市大井3-9-16
[電話]072-972-0016 - 柏原黒田神社
志疑神社(しぎじんじゃ)は、大阪府藤井寺市大井にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 志紀郡「志疑神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
大和川南岸近く住宅地の中に鎮座する。西側には周辺地区の下水を浄化し、大和川に流したり、再利用する下水処理場がある。
この大和川は、江戸時代中期の宝永元年(1704年)に造られた人工の川。
しかし、当社付近の大和川の川底には、石器時代から中世に到る膨大な遺跡が埋もれていることが判明した。船橋遺跡である。
遺跡の中心部は、大和川の河床部分と考えられ、この川が堤防を積み上げる方式で造営されたため、遺跡の存在が分からず、また破壊も免れた。
その後、川底で眠っていたため、近年になっても建物や道路が建設されずに、結果保存された。
相当古くから当社一帯は栄えていたことが分かる。ただし、当社の創建やその後の由緒なども不詳。
志紀郡に居住した志紀氏が氏祖を祀ったものと考えられている。志紀氏には二つの系統があり、饒速日命のものと、神八井耳命のもの。
当社は後者で、もともとは神八井耳命を祀っていたとされる。『河内国式神私考』もそのように指摘している。市内の志貴県主神社とも関連が指摘される。
現在の御祭神は、素盞嗚尊・菅原道真。近世の江戸時代には「天王」と称しており、牛頭天王を祀る社だった。
明治になり、明治5年(1872年)、村社に列したが、明治40年(1907年)10月24日、市内のやはり式内社である黒田神社に合併された。
戦後になり、昭和21年(1946年)6月、分離独立して、旧地に復社した。例祭は10月9日。だんじりの巡行がある。
境内南西には「常楽山薬師堂」がある。今から約350年前の江戸時代中期に建立されたという。
現在は、柏原市今町の柏原黒田神社の兼務神社。先の市内の黒田神社を分祀した別の神社で、市内の黒田神社も現在は柏原黒田神社の兼務社である。
【ご利益】
地域安全、一族・子孫繁栄、厄災除け
【関連記事】
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
[電話]072-972-0016 - 柏原黒田神社
志疑神社(しぎじんじゃ)は、大阪府藤井寺市大井にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 河内国 志紀郡「志疑神社」に比定される式内社(小社)。近代社格では村社。
大和川南岸近く住宅地の中に鎮座する。西側には周辺地区の下水を浄化し、大和川に流したり、再利用する下水処理場がある。
この大和川は、江戸時代中期の宝永元年(1704年)に造られた人工の川。
しかし、当社付近の大和川の川底には、石器時代から中世に到る膨大な遺跡が埋もれていることが判明した。船橋遺跡である。
遺跡の中心部は、大和川の河床部分と考えられ、この川が堤防を積み上げる方式で造営されたため、遺跡の存在が分からず、また破壊も免れた。
その後、川底で眠っていたため、近年になっても建物や道路が建設されずに、結果保存された。
相当古くから当社一帯は栄えていたことが分かる。ただし、当社の創建やその後の由緒なども不詳。
志紀郡に居住した志紀氏が氏祖を祀ったものと考えられている。志紀氏には二つの系統があり、饒速日命のものと、神八井耳命のもの。
当社は後者で、もともとは神八井耳命を祀っていたとされる。『河内国式神私考』もそのように指摘している。市内の志貴県主神社とも関連が指摘される。
現在の御祭神は、素盞嗚尊・菅原道真。近世の江戸時代には「天王」と称しており、牛頭天王を祀る社だった。
明治になり、明治5年(1872年)、村社に列したが、明治40年(1907年)10月24日、市内のやはり式内社である黒田神社に合併された。
戦後になり、昭和21年(1946年)6月、分離独立して、旧地に復社した。例祭は10月9日。だんじりの巡行がある。
境内南西には「常楽山薬師堂」がある。今から約350年前の江戸時代中期に建立されたという。
現在は、柏原市今町の柏原黒田神社の兼務神社。先の市内の黒田神社を分祀した別の神社で、市内の黒田神社も現在は柏原黒田神社の兼務社である。
【ご利益】
地域安全、一族・子孫繁栄、厄災除け
【関連記事】
・大阪府の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、大阪府に鎮座している神社の一覧
コメント