宇治物部氏が宇治野山に創祀、福原遷都時に再建、安徳天皇が行幸
[住所]兵庫県神戸市中央区中山手通7-28-30
[電話]078-341-1812
熊野神社(くまのじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区中山手通にある神社。山手熊野神社とも。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。遠い昔、宇治物部氏による創建と伝わる。
『新撰姓氏録』には饒速日命の六世孫である伊香我色雄命の後として、物部系と思われる宇治宿禰が記載されている。
また、山城国宇治には饒速日命を御祭神とする高屋神社がある。
当地は宇治野山と呼ばれ、その附近は奈良時代の天平19年(747年)『大和法隆寺流記資材帳』に「摂津国雄伴郡宇治卿」とある。
宇治野山は、この時代の条里図にも記され、古くから開発されていたことが分かる。
御祭神は、伊弉諾命・伊弉冉命。物部色のない神であり、平安期以降、熊野を勧請したものとみられる。
平安時代末期の治承4年(1180年)、福原遷都の際、遷都造営役の五条大納言藤原邦綱により再建された。
藤原邦綱は、この付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建て、福原遷都によりこの地に滞在していた安徳天皇が、京都に戻る前に宇治新亭に行幸したという。
応徳元年(1084年)から明治初年に至る『社寺改帳』には、「境内地五反三畝二十二歩古来余地」とある。
江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)の『摂津志』には、「宇治野渓ノへ源ハ宇治野山中ヨリ走水オ歴テ海二注グ」とある。
豊臣秀吉の直轄領から戸田青山領となり、さらに土井大炊頑の所領となって、明治維新に至った。村高は170石だったという。
氏子区域は、中山手通7・8丁目、下山手通7・8・9丁目、北長狭通7丁目で約1000戸とされる。
例祭は7月7日で、福引・ガレージセール・子供神輿の巡行・絵行灯などが行われ、賑わう。
延宝3年(1675年)の石灯籠があった。また、石鳥居に元禄3年(1690年)の銘があった。しかし、阪神・淡路大震災により倒壊。その後震災被害から復興している。
境内摂社に、熊高稲荷神社がある。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、地域安全
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熊野神社(くまのじんじゃ)は、兵庫県神戸市中央区中山手通にある神社。山手熊野神社とも。近代社格では村社。参拝すれば、御朱印を頂ける。
創建年代は不詳。遠い昔、宇治物部氏による創建と伝わる。
『新撰姓氏録』には饒速日命の六世孫である伊香我色雄命の後として、物部系と思われる宇治宿禰が記載されている。
また、山城国宇治には饒速日命を御祭神とする高屋神社がある。
当地は宇治野山と呼ばれ、その附近は奈良時代の天平19年(747年)『大和法隆寺流記資材帳』に「摂津国雄伴郡宇治卿」とある。
宇治野山は、この時代の条里図にも記され、古くから開発されていたことが分かる。
御祭神は、伊弉諾命・伊弉冉命。物部色のない神であり、平安期以降、熊野を勧請したものとみられる。
平安時代末期の治承4年(1180年)、福原遷都の際、遷都造営役の五条大納言藤原邦綱により再建された。
藤原邦綱は、この付近に宇治新亭と呼ばれる邸宅を建て、福原遷都によりこの地に滞在していた安徳天皇が、京都に戻る前に宇治新亭に行幸したという。
応徳元年(1084年)から明治初年に至る『社寺改帳』には、「境内地五反三畝二十二歩古来余地」とある。
江戸時代中期の享保年間(1716年-1736年)の『摂津志』には、「宇治野渓ノへ源ハ宇治野山中ヨリ走水オ歴テ海二注グ」とある。
豊臣秀吉の直轄領から戸田青山領となり、さらに土井大炊頑の所領となって、明治維新に至った。村高は170石だったという。
氏子区域は、中山手通7・8丁目、下山手通7・8・9丁目、北長狭通7丁目で約1000戸とされる。
例祭は7月7日で、福引・ガレージセール・子供神輿の巡行・絵行灯などが行われ、賑わう。
延宝3年(1675年)の石灯籠があった。また、石鳥居に元禄3年(1690年)の銘があった。しかし、阪神・淡路大震災により倒壊。その後震災被害から復興している。
境内摂社に、熊高稲荷神社がある。
【ご利益】
家内安全、夫婦和合、地域安全
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