二上山北方の独立小丘北麓、穴虫街道、近世は牛頭天王社で相撲
[住所]奈良県香芝市穴虫1499-1
[電話]-
大坂山口神社(おおさかやまぐちじんじゃ)は、奈良県香芝市穴虫にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大坂山口神社(大和国・葛下郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)の論社。近代社格では村社。
二上山北方の独立小丘北麓に鎮座する。往時の大坂越えの一つである穴虫街道に面する。
創建年代は不詳。北東約600-800メートルの市内逢坂にも同名神社があり、式内論社。
『日本書紀』第10代崇神天皇9年3月15日条、同4月16日条に、黒盾八枚・黒矛八竿をもって「大坂神」を祀らせたとあるが、これは式内社「大坂山口神社」とは別だという。
同時に記載されている「墨坂神」については、宇陀市榛原萩原に墨坂神社がある。
式内社「大坂山口神社」は、『日本三代実録』天安3年(859年)1月27日条に、従五位下より正五位下に昇叙、貞観元年9月8日には風雨祈願のため奉幣があったという。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「大坂山口社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。祈年祭には馬一匹を加えられた。
大和国の式内社で山口の社名を有する14の神社、いわゆる大和国十四所山口神社の一つで、本来の御祭神は大山祇命だと思われる。
近世には、牛頭天王社・祇園宮と称し、社前には神宮寺威光庵があった。
江戸時代前期の寛永2年(1625年)以来の棟札を蔵し、それらにはほとんどが背後の山の石巌を掘削して境内を広くしたと記され、金剛砂貢納と関連するものと推察される。
遷宮導師として金剛山転法輪寺(現 奈良県御所市)・多武峯寺・紀州高野山の塔頭や、当地の祇園宮寺(威光寺のことか)の僧名がみえる。
現在の拝殿は間口5間、奥行2間の割拝殿で、棟札によると、延享元年(1744年)の再建になる。
文化13年(1816年)の棟札に初めて式内社名及び現社号が記された。現在の三間社流造、銅板葺きの本殿はこの時の再建による。
威光庵はもと当社後方にあり、無本寺で宗派も不明だったが、明和4年(1767年)に大道村の大道寺末になり、曹洞宗と定めて社前に移建した。
威光庵は、明治初年の神仏分離により廃寺となった。現在までに、御祭神は、須佐之男命・大山祇命・天児屋根命。
秋の大祭には、この牛頭天王に奉納する宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」と呼ばれ、相当な賑わいであったという。
拝殿には、文久2年(1862年)や明治19年(1886年)の奉納板番付があり、境内には馬場組記念碑や石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。
この馬場組をリードしたのは、大阪相撲で活躍した地元出身の力士、大の松為次郎(1859年-1921年)で、大正4年(1915年)、当社境内で引退相撲を行った。
また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組が『竹園日記』などにみえ、周辺の墓地には古い力士墓がある。
現在の例祭は10月16日で秋季例大祭。4月9日が祈年祭で春祭り。
境内社に、琴平神社(金山彦命)、市杵嶋神社(市杵嶋比売命)がある。
【ご利益】
厄災除け、病魔退散、交通安全

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大坂山口神社(おおさかやまぐちじんじゃ)は、奈良県香芝市穴虫にある神社。御朱印の有無は不明。
『延喜式神名帳』にある「大坂山口神社(大和国・葛下郡)」に比定される式内社(大社、月次新嘗)の論社。近代社格では村社。
二上山北方の独立小丘北麓に鎮座する。往時の大坂越えの一つである穴虫街道に面する。
創建年代は不詳。北東約600-800メートルの市内逢坂にも同名神社があり、式内論社。
『日本書紀』第10代崇神天皇9年3月15日条、同4月16日条に、黒盾八枚・黒矛八竿をもって「大坂神」を祀らせたとあるが、これは式内社「大坂山口神社」とは別だという。
同時に記載されている「墨坂神」については、宇陀市榛原萩原に墨坂神社がある。
式内社「大坂山口神社」は、『日本三代実録』天安3年(859年)1月27日条に、従五位下より正五位下に昇叙、貞観元年9月8日には風雨祈願のため奉幣があったという。
神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「大坂山口社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。祈年祭には馬一匹を加えられた。
大和国の式内社で山口の社名を有する14の神社、いわゆる大和国十四所山口神社の一つで、本来の御祭神は大山祇命だと思われる。
近世には、牛頭天王社・祇園宮と称し、社前には神宮寺威光庵があった。
江戸時代前期の寛永2年(1625年)以来の棟札を蔵し、それらにはほとんどが背後の山の石巌を掘削して境内を広くしたと記され、金剛砂貢納と関連するものと推察される。
遷宮導師として金剛山転法輪寺(現 奈良県御所市)・多武峯寺・紀州高野山の塔頭や、当地の祇園宮寺(威光寺のことか)の僧名がみえる。
現在の拝殿は間口5間、奥行2間の割拝殿で、棟札によると、延享元年(1744年)の再建になる。
文化13年(1816年)の棟札に初めて式内社名及び現社号が記された。現在の三間社流造、銅板葺きの本殿はこの時の再建による。
威光庵はもと当社後方にあり、無本寺で宗派も不明だったが、明和4年(1767年)に大道村の大道寺末になり、曹洞宗と定めて社前に移建した。
威光庵は、明治初年の神仏分離により廃寺となった。現在までに、御祭神は、須佐之男命・大山祇命・天児屋根命。
秋の大祭には、この牛頭天王に奉納する宮相撲が行われ、「馬場のお宮さんの相撲」と呼ばれ、相当な賑わいであったという。
拝殿には、文久2年(1862年)や明治19年(1886年)の奉納板番付があり、境内には馬場組記念碑や石垣を組んだ桟敷席があり、近年まで土俵も残されていた。
この馬場組をリードしたのは、大阪相撲で活躍した地元出身の力士、大の松為次郎(1859年-1921年)で、大正4年(1915年)、当社境内で引退相撲を行った。
また、近世以降、当麻・勝根・鎌田・五位堂・良福寺など、村名を冠した相撲組が『竹園日記』などにみえ、周辺の墓地には古い力士墓がある。
現在の例祭は10月16日で秋季例大祭。4月9日が祈年祭で春祭り。
境内社に、琴平神社(金山彦命)、市杵嶋神社(市杵嶋比売命)がある。
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