『万葉集』に詠まれた名次山、「破格」の風雨の神、大錬塀とニテコ池
[住所]兵庫県西宮市名次町13
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名次神社(なつぎじんじゃ)は、兵庫県西宮市名次町にある神社。御朱印の有無は不明。

延喜式』巻9・10神名帳 畿内神 摂津国 武庫郡「名次神社」に比定される式内社(小社)。廣田神社の境外摂社である。

創建年代は不詳。『万葉集』で下記のように詠まれた景勝の地、名次山との関連が深い。明治末期まで、名次山を含めて、当社境内だったという。
高市連黒人
吾が妹子に 稲名野は見せつ 名次山 角の松原 いつか止さむ
御祭神は水分大神。不詳とされる場合もあるが、後述のように祈雨・雨乞いの神であり、水神であることは間違いない。一説に、天御中主神とも。

平安時代、大同元年(806年)の『新抄勅格符抄』に神封として摂津国の2戸を充てたという記述がある。

『日本三代実録』貞観元年(859年)正月27日条に正五位下に叙されたとある。また、同年9月には遣使奉幣があり、風雨祈願がなされた。

神名帳の他に、『延喜式』巻3「臨時祭」祈雨神祭条に「名次社一座」とあり、祈雨神祭85座に含まれる。

この85座には、式内名神大社、祝詞で読まれる大和水分社大和山口社などが中心であり、当社のような式内小社が列することは極めて異例。

なお、祈雨神祭条には85座がすべて大社である旨が記載されているが、神名帳では当社は小社になっており、こうした齟齬があるのは当社のみ。

それだけ、当時重要視されていた風雨祈願において、当社の霊験が朝廷に認められていたということか。

当初は、もともと浜近くの越水丘陵の南端に祀られていた、とも。

夙川の流れが運ぶ土砂の堆積によって南下した海岸線にあわせ、漁民たちが移り住んでいったため、次第に衰退した。

そこで、摂津国守護細川高国に仕えていた豪族瓦林正頼が戦国時代の永正13年(1516年)に越水城を築城した際、名次山の中腹へと遷されたという。

江戸時代前期の元禄5年(1692年)5月、西宮浦商人戎講中が石鳥居を寄進。江戸時代中期の正徳5年(1715年)4月、石祠に改めて遷宮した。この石造りが旧本殿。

明治11年(1878年)2月22日、廣田神社の境外摂社となり、明治41年(1908年)5月、市の上水道の水源地であるニテコ池の上池の西北岸、現在地に遷座した。

この地は大阪層群の土である真土と真砂が採れ、西宮神社にある国の重要文化財に指定されている「大錬塀」に使用された。

「大錬塀」を造る時に掘られた跡が池になったが、ニテコの名称は、土を運ぶ人たちの「ネッテコイ、ネッテコイ」という掛け声からによるとも。

例祭は10月11日。

【ご利益】
祈雨・天候、身体壮健、五穀豊穣
名次神社 兵庫県西宮市名次町
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