壬申の乱などで翻弄された十市皇女の墓ともされる比売塚に昭和創建
[住所]奈良県奈良市高畑町1352
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比売神社(ひめがみしゃ、比賣神社)は、奈良県奈良市高畑町にある神社。南都鏡神社の摂社である。御朱印の有無は不明。

比売塚と呼ばれる小さな古墳の上に鎮座する。比売塚は古くから「高貴の姫君の墓」と語り伝えられている。

『日本書紀』の「天武天皇6年(678年)4月14日に十市皇女を、天武天皇10年(682年)に氷上娘を赤穂の地に葬った」とされる、この二人の墓ではないかと考えられている。

近くには、この比売塚の拝殿とする説もある、現在はやはり南都鏡神社の別社である式内社の赤穂神社がある。

御祭神は、十市皇女。市寸嶋比売を脇座とする。十市皇女は天武天皇と額田王の一人娘で、天智天皇の子である大友皇子に嫁いだ。

天智天皇の死後、その後継者である大友皇子と、天智天皇の弟とされる天武天皇が対決、いわゆる壬申の乱である。

この天下分け目の戦いに勝利した天武天皇が政権を執ることになる。

大友皇子は戦いの前までに即位していたとも考えられ、そうなれば、十市皇女は皇后だったことになる。

父の敵である大友皇子に嫁ぎ、その皇后だったかもしれない十市皇女は、戦いの後も生きたが、極めて微妙な立場だったことは間違いない。

戦いの後、数年後に急死。自殺・暗殺の可能性が高いか。父である天武天皇は号泣したと伝えられ、天武天皇の長男である高市皇子は熱烈な挽歌を捧げた。

1920年代に比売塚は国有となって奈良財務局の管理下におかれたが、地元の有志の奔走によって奈良財務局から比売塚の払い下げを受けた。

比売塚の現形9坪を新薬師寺に寄進し、神殿・祭祀を鏡神社の摂社として委任した。

昭和55年(1980年)夏、新薬師寺・鏡神社の協力により地鎮祭が、同年末に上棟祭が行われた。

昭和56年(1981年)、十市皇女の命日である4月7日を新暦に換算した5月10日に鎮座奉祝祭が行われ、当社が誕生した。

高さ約2.5メートル、幅約2メートルほどの社殿が建てられている。

社殿の正面1.5メートルぐらいのところに朱塗りの門があり、その門は閉ざされていて、そこから中に入ることはできないようになっている。

社殿に付いている鈴と、その門とがひもで結ばれており、参拝者は門前からそのひもを引いて鈴を鳴らすようになっている。

社殿の正面向かって左側に、男女がむつまじく肩を寄せあっている像が彫られた高さ1.5メートルぐらいの石がある。

その左に「神像石(かむかたいし)」という、大友皇子・十市皇女から淡海三船までの4代とそれぞれの妃を祀った石が置かれている。

そのほか、社殿の脇に絵馬を掛ける場所があり、良縁を願う人々の絵馬が多数掛かっている。

その前には小さな石が置かれ、『万葉集』の下記の歌が彫られている。
吹黄刀自
河の上の 斎つ岩群に 草むさず 常にもがもな 常処女にて

意味:川の上流で沐浴している巌に草が生えないように、これからもずっといたいものです。常処女のままで
吹黄刀自は、十市皇女の侍女。この歌の主体を吹黄刀自そのものとするか、主人である十市皇女にするかで、「常処女」の意味も変わる。

「常処女」は「若さ」「若いままい続ける」ことなどともされるが、より直接的に「常の処女」で、「独身」あるいは再婚しない「寡婦」。

歌の主体が吹黄刀自であれば独身のままでありたいと願ったものか。

十市皇女であれば、壬申の乱で夫である大友皇子を亡くした皇女の、再婚など再びの波乱、少なくともその種にならないよう、願ったものか、皇女の大友皇子との愛に殉じる思いを歌ったものか。

大友皇子とは不仲だったという説もあるが、乱後、高市皇子に言い寄られていた可能性もあり、侍女としては、「そっとしておいて」と主人を慮ったのかもしれない。

高市皇子も不思議な皇子で、立場や能力から考えて、なぜ天皇にならなかったのか、なれなかったのか、謎。即位説もあるが。

伊勢の神宮(伊勢神宮)ともゆかりの深い十市皇女であるが、壬申の乱という未曽有の大乱をはさんだ、宮中の愛憎劇の中に生きた女性だったようだ。

【ご利益】
女性守護、縁結び、諸願成就
比売神社 奈良県奈良市高畑町
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