平安初期に藤原俊仁が救われた「とうげさま」、源氏や白河藩主の崇敬
[住所]福島県西白河郡泉崎村泉崎烏峠4
[電話]0248-53-2549

烏峠稲荷神社(からすとうげいなりじんじゃ)は、福島県西白河郡泉崎村泉崎烏峠にある神社。御朱印の有無は不明。

泉崎村で最も高い山で、標高486メートルの烏峠の山頂に鎮座する。

平安時代初期、下野国の凶賊を征伐するため、第52代嵯峨天皇の勅命を受けた藤原俊仁が当地を訪れた。

しかし戦いは苦戦して、俊仁は白川郡のこの峠まで退いた。追ってきた賊軍に峠の四方を囲まれ、絶体絶命のピンチに追い込まれた。

俊仁が覚悟を決め、はるか西の都の方を望んだ時、その空から一羽のカラスが声高く鳴いてキラキラ光るものを落として飛び去った。

この光るものを拾おうとすると、どこからか現れた白狐がこれを加えて草むらに消えた。白狐を追うと、山上の小さな祠の辺りで消えた。

俊仁は、「あのカラスこそ我が氏神、大和国烏ヶ嶺勝手稲荷大明神のお使いに違いない」と、再び奮戦。乱戦の末、勝利を収めた。

京に凱旋した俊仁はこれを天皇に報告、その後天長5年(828年)、奥州巡視の命を受けて再びこの地を訪れた。

俊仁は峠の山頂に社殿を建立して、この峠を烏ヶ嶺と名付けたという。これが当社の創始。

いつごろからか烏ヶ嶺が烏峠と呼ばれるようになり、現地では当社を含めて「とうげさま」として崇敬されるようになった。

それからすぐの承和元年(834年)、弘法大師空海が当地を訪れ、17日の修業を行ったと伝わる。

また、永承7年(1052年)には源頼義が戦勝を祈願し、社殿を修復したという。

その子である源義家は寛治5年(1091年)、石清水八幡宮を勧請、鎧一個を奉納したという。そのため、鎧八幡宮とも呼ばれた。

鎌倉時代初期の建久7年(1196年)、源頼朝が当社の社殿を造営。

江戸時代になり、万治3年(1660年)、再建されて、明和元年(1764年)にも陸奥白河藩初代藩主松平定賢が修復した。

安永元年(1772年)、正一位稲荷大明神の額が下賜され、寛政11年(1799年)、陸奥白河藩3代藩主松平定信が社殿を修復、これが現在の社殿である。

本殿には、いたるところに見事な彫刻が施され、彫刻の一部には赤や青黄色などの顔料が残っており、当初は色彩豊かな建造物だったと考えられている。

境内には、狛犬や、慶応3年(1867年)銘の石造の狐像などがある。

平成28年(2016年)12月、韓国人の男性がこの狐像などを破壊、他の器物も損壊させるなどの事件が起きた(参考:韓国の文化財の盗難と破壊)。

旧暦8月1日に開催される八朔大祭は、かつて北は山形県から南は栃木県まで多くの参詣客が訪れた。

昭和30年(1955年)に泉崎第一小学校の6年生が制作した八朔大祭の様子を表した版画「とうげさま」が、全国コンクールで特選に選ばれた。

【ご利益】
武運長久・勝運、諸願成就
烏峠稲荷神社 福島県西白河郡泉崎村泉崎烏峠
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