「賤ヶ岳の七本槍」脇坂安治を奉斎、4月に桜満開のもと武者行列
[住所]兵庫県たつの市龍野町中霞城2
[電話]0791-62-0543
龍野神社(たつのじんじゃ)は、兵庫県たつの市龍野町中霞城にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
鶏籠山南西麓に鎮座する。賤ヶ岳の七本槍に数えられる龍野藩脇坂家初代の脇坂安治を祀る。
江戸時代後期の文化8年(1811年)、龍野藩8代藩主脇坂安董は脇坂安治を建安治主大明神と仰ぎ、小祠を造営した。安治主命とも、武安治公霊とも。
幕末の文久2年(1862年)、安董の子である9代藩主脇坂安宅が、父の遺志を継ぎ、脇坂家の廟として脇坂家上屋敷(現 聚遠亭)の東隣に社殿を創建した。
垂裕大明神とも称され、その際、安董が安置した神像を鎮斎した。
時代の藩主脇坂安斐において、明治維新を迎え、旧藩主家が東京に移ると同時に、当社も東京へ遷座する予定だったという。
しかし明治7年(1874年)、龍野町と北龍野・樋山村の人々が協議して、当地での残留を請い、許された。
そこで境内を拡張し、社殿を修理、この年に郷社に列した。一時、垂裕神社に改称したが、明治8年(1875年)4月、現社号に改称、御祭神名を建安治主命とした。
現在は、新宮さんと親しまれ、野見宿禰神社・玉島嶋稲荷神社などを合祀、境内摂社に、城山八幡宮・粟島神・水天宮がある。
宇迦之御魂命・誉田別命・天御中主命・迦具都知命・野見宿禰命を併せて祀る。
例祭は4月第2日曜日。御神幸があり、神輿の前後に甲冑武者・子供武者ら総勢300人あまりが威風堂々と行列を作って、城下町を練り歩く。
いわゆる武者行列で、境内に多く植えられている桜の花が満開の中で、時代絵巻が繰り広げられる。
当社創建ゆかりの聚遠亭は、松平定信が当地を訪れた際、ここからの眺望を称えて「聚遠の門」と呼んだことが始まり。
天気がよければ、淡路島、瀬戸内海が見えるという。安政年間(1855年-1860年)、脇坂安宅が、御所が炎上したときの復興で功績があったため、孝明天皇から拝領したもの。
周辺には、龍野公園や龍野城跡がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、地域安全、家内安全
【関連記事】
・兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
[電話]0791-62-0543
龍野神社(たつのじんじゃ)は、兵庫県たつの市龍野町中霞城にある神社。近代社格では郷社。御朱印の有無は不明。
鶏籠山南西麓に鎮座する。賤ヶ岳の七本槍に数えられる龍野藩脇坂家初代の脇坂安治を祀る。
江戸時代後期の文化8年(1811年)、龍野藩8代藩主脇坂安董は脇坂安治を建安治主大明神と仰ぎ、小祠を造営した。安治主命とも、武安治公霊とも。
幕末の文久2年(1862年)、安董の子である9代藩主脇坂安宅が、父の遺志を継ぎ、脇坂家の廟として脇坂家上屋敷(現 聚遠亭)の東隣に社殿を創建した。
垂裕大明神とも称され、その際、安董が安置した神像を鎮斎した。
時代の藩主脇坂安斐において、明治維新を迎え、旧藩主家が東京に移ると同時に、当社も東京へ遷座する予定だったという。
しかし明治7年(1874年)、龍野町と北龍野・樋山村の人々が協議して、当地での残留を請い、許された。
そこで境内を拡張し、社殿を修理、この年に郷社に列した。一時、垂裕神社に改称したが、明治8年(1875年)4月、現社号に改称、御祭神名を建安治主命とした。
現在は、新宮さんと親しまれ、野見宿禰神社・玉島嶋稲荷神社などを合祀、境内摂社に、城山八幡宮・粟島神・水天宮がある。
宇迦之御魂命・誉田別命・天御中主命・迦具都知命・野見宿禰命を併せて祀る。
例祭は4月第2日曜日。御神幸があり、神輿の前後に甲冑武者・子供武者ら総勢300人あまりが威風堂々と行列を作って、城下町を練り歩く。
いわゆる武者行列で、境内に多く植えられている桜の花が満開の中で、時代絵巻が繰り広げられる。
当社創建ゆかりの聚遠亭は、松平定信が当地を訪れた際、ここからの眺望を称えて「聚遠の門」と呼んだことが始まり。
天気がよければ、淡路島、瀬戸内海が見えるという。安政年間(1855年-1860年)、脇坂安宅が、御所が炎上したときの復興で功績があったため、孝明天皇から拝領したもの。
周辺には、龍野公園や龍野城跡がある。
【ご利益】
一族・子孫繁栄、地域安全、家内安全
【関連記事】
・兵庫県の神社 - 本サイトに掲載されている神社で、兵庫県に鎮座している神社の一覧
コメント